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2016年11月22日火曜日

【作品】 知性について・人間性について


 これは草稿として書かれたもので、おそらく決定稿は存在しない。思索は常に進展するからだ。また常々、論理的な記述にはさしたる意味がないと考えてきた。だから、雲がちぎれ飛ぶように、散漫な思考の過程を記すにすぎない。その背景にあるのは印象と直観をもとにした洞察で、論理ではない。



 ものの本を読むと、いくばくかの心ある人たちが知性の衰退を嘆いている。またいくばくかの心ある人たちが人間精神の荒廃を嘆いている。最近では反知性主義などという言葉すらあるほどだ。これは知識階級、知識人、この手の人たちへの不信ゆえだろうか。しかし彼らは本当に知的なのか。そもそも知性とはなにか。


 この難問を考えるとき、すでに論理は無力だということを予感せざるをえない。おそらく、それは厳密には語れないのだ。それは、美とはなにかとか、芸術とはなにかとか、そういう問いに似ている。山ほどの研究書、山ほどの哲学書、山ほどの文学作品を積みあげてさえしかとはいえないように。


 考えようによっては、知性とは感性と直観力の融合なのではないか? と思うこともある。なぜなら、科学者とか理論家のような人たちでさえ、まずはじめにあるのは世界を観察する感性だからだ。やがて直観が閃き、深い洞察にいたる。風呂の水があふれた例だとか、木からりんごが落ちた例だとか、いちいちあげるには及ぶまい。彼らが理論を構築するのはずっとあとだ。決して理論がはじめにあるわけではない。


 反対に、理論からはじめて、それを山ほど積みあげたあげくある洞察へ到達するということはほとんど考えられない。これはたとえば詰めこみ教育などを参考にすれば明らかだろう。なにか創造的な仕事をするとき、理論からはいる人はほとんどたいしたことはなしえないのだ。


 なかには、感性と直観のみでなにか深い現実をつかんでいるといったような場合もある。すぐれた宗教家や本物の芸術家などだ。普通これは知性とは考えられていない。しかし、東洋思想や高徳の僧侶らが達した境地を、叡知でないと断言するのは早計ではなかろうか。少なくとも、彼らは確かに現実世界を明察している。その対象が世界にしろ、人間にしろ、表面的な事実の背後にひそむ本質を見抜いている。だが、彼らの精神の働きについて語るのは難しい。ここではもう少し一般的な知性について考えたい。


 おそらく、知性とは人間的な能力の総合とその調和なのだろう。感性に、直観力に、洞察力に、想像力に、論理的思考力、などなど。これらはほんの一例にすぎず、これ以外の能力もたくさん必要に違いない。こういった数々の能力のうちどれかが欠ければ、あるいは低ければ、総合的な知力は落ちるだろう。そのなかには知識も含まれるし、経験も含まれるだろう。


 ところが、これらの調和を一切無視して、知識もしくは経験のみの人物というのがいる。残念ながら、この種類の人物がいかに世界に対する洞察に欠けるか、こればかりは知る人ぞ知るで説明できない。彼らは世界の表面だけをなぞって、なにかわかったようなことをいう。だが彼らが深いところまで見えていないということは、わかる人にはわかる。こういったことは立証したり論難したりできないので、洞察するよりほかにはない。


 結局のところ、この問題は禅でいう「不立文字」に近い。言葉で説明することはできず、理屈でもない。むしろ、ただひたすら洞察あるのみなのだ。これこそ知性の、いや、ほとんどすべての事柄の特徴なのかもしれない。言葉や論理がなにかを説明しうるというのは幻想なのだ。


 あまりに、知識と理論ばかりつめこんで、そのじつなにも見えていないという人物が多すぎる。この人たちは自分で考えていないのだ。教わったことや、聞いたことや、読んだことを、ただただ鵜呑みしているにすぎない。しかし、すべては自分で観察し考えるところからはじめなければならない。なにかを学んだら、改めて独自に考えてみなければならない。知識の鵜呑み、理論の鵜呑みはむしろ知性とは正反対のものだ。それは結局は葬り去ったはずの迷信をよみがえらせているにすぎない。


 知性とはなにか。別の言葉でいえば、それは単純に「人間」だということなのだ。この人間は常に生まれたばかりの子供のように驚嘆して世界を眺め、どんなささやかなことにでも疑問を持つ。落ち葉ひとつ、雲ひとつ、どんなことだって驚異でないものはないし、思考を刺激する。人のいうことを鵜呑みにせず、どんなに時間をかけても必ず自分で考え直す。彼は決して感じ考えることをやめず、よりよく見たい、よりよく知りたいと願っている。


 この人間は当然のように最大の謎を考える。宇宙の意味、人生の目的、人間とはなにか、自分はどこからやってきて、どこへいくのか。この難問に対して、彼は決して思考停止に陥ったりはしない。明確な答えはないかもしれず、悟りはないかもしれない。しかしそうではないかもしれない。少なくとも、問い考え続ける限り、彼のなかで認識は深まっていく。これこそ人間の姿に思える。


 この意味において、学者であるとか、専門家であるとか、ある特定の知識にのみ詳しいとか、そういったことはすべて知性を保証しない。この人間の姿は、市井のなかにも、詩人のなかにも、見いだしうるものだ。それは職業ではないし、肩書きでもない。



 このような知性はどこにあるかと見わたすとき、周囲の惨憺たる状況にあ然とせざるをえない。図体ばかり大きいたくさんの子供たちが、いくつになってもおもちゃに夢中になっている。この子供たちは数限りなく提供されるおもちゃに現実逃避し、それでいて文句ばかりいう。幼稚で陳腐なものがもてはやされ、選ばれた子供代表団ときては懲りずに戦争ごっこをしたがる。子供の国というのはどこかのおとぎ話ではなくて、実際の地上にある島国なのだ。


 そこで次の問いが生まれる。はたして、教育は可能なのか。人間、主体的で感受性にとみ、直観と洞察をもとに本当に考えることができ、死ぬまで成長を続ける、人間存在をつくることははたして本当に可能なのか。


 こう自問するとき、「否」というほうに傾くのを否定できない。確かに、教育は社会人をつくることはできるかもしれない。この社会人はその文化圏での常識につうじ、労働し、納税し、法律をある程度は守る。教わった知識を丸暗記し、多少は応用し、技術や商品を開発したりする。しかしこの社会人は、すでに考察したような人間像にはまるで似ていない。


 この国では詰めこみ教育もしくは教わったことを鵜呑みにする人材を大量生産し、いくばくかのましな国では議論などを中心にした比較的自由な教育がおこなわれている。前者は自分で考えられないし、後者はある程度自分で考えられるらしい。しかし感性鋭く洞察力にすぐれる人間をつくるという意味では、それらがどれほどの功を奏すのか疑いを禁じえない。


 試みまでに過去の偉大な人たちを参照してみると、知者はなんの条件もなくたまたまあらわれるように見える。時代や文明も関係なければ、経済的なことや社会状況も関係なく、遺伝すら関係ない。この実例はいくらでもあげることができる。紀元前の哲学者たちほどの明晰な洞察を、現代人は持ってはいまい。情報量、知識の総量は現代のほうが圧倒的に多いというのに。貧しい労働者階級から明察する人がでてきた例もあるし、まるで教育のないところから独学であらわれた人もいる。これらの例はすべて環境や教育といった考えを否定している。反対に、高等教育が一般化した現代でも人々はたいして目がきかないし、科学や技術の進歩も人間そのものはまるで進歩させられなかった。


 このような人間のことをなんと呼ぼう? 本当の人間、人間らしい人間、彼らは知者というよりむしろ、見者といったほうがより近いのかもしれない。人によっては、ただ世渡りがうまいだけの狡知に長けた人物を知者だと信じている場合もある。だが言葉はすべて曖昧だ。知者と呼ぼうが見者と呼ぼうが、言葉は決して厳密にはなりえない。


 これは教育批判というより、ほとんど教育の否定に聞こえる。しかしながら、ここで考えたいのは教育問題ではない。これらの考察をもとに、もっとずっと飛躍したところまで考えてみたいのだ。



 明察を求める光は人のなかでまどろんでいて、これを解き放つことは誰にもできない。当の本人を除いては。これだけ多様なメディアがあり、天にも届く大量の本があり、これだけの情報があふれている。それにもかかわらず見者というのを滅多に見かけない以上、この推論はそれなりの説得力を持つように思う。


 すると次の問いが生まれる。知性とは生来のものなのかという問いだ。容貌のように、身長のように、遺伝子のように。それらはどれも宿命的に決まっていて、基本的には変えられない。知性もそれと同じなのか。この知性とは、世界を理解したいという衝動といってもいい。


 これは倫理性についても同じことがえる。勘違いされているかもしれないが、倫理というのは主体的な衝動だ。親教師がそういうから従うとか、法律がそう要請するから従うとか、そういうことではない。彼は善悪についてよく考え、自分だけの規律を設けることができる。これに従って、よく生きたいと思う。正しくありたいと思う。宗教家が厳しい修行の道を選ぶように、偉大な哲学者がみずからを律するように、彼らはそうしたいのだ。決して外的な力によるものではない。これは生理的な欲求に似ている。美や文学への渇望も同じことだ。

 しかし、このような衝動は教えられるのか。教育が直観力や洞察力を教えられなかったように、倫理的な衝動を与えることもまたできないのではないか。ここでもまた教育の不可能性が予感される。


 知性や倫理性について考え、それらは先天的に決まっているのではないかと考えるとき、これまでとはまったく別次元の問題に行き当たる。魂の問題だ。


 知性や倫理性は本人が自分で獲得するしかないもので、それは魂の質、輪廻による成長度合いに根ざしているのではないか? そう問うこともできるだろう。そうでなければ、各人の知性や倫理性の絶大な差異が説明できないからだ。しかもそれらは内なる衝動なのだ。このような衝動が、環境や教育や遺伝によるものでないということはすでに見た。ほかに唯一可能な説明は、脳の突然変異だとかまったく例外的に特殊な個体なのだとかいった唯物論的な説明だが、ここでは立ち入らないでおく。



 魂はあるのか。それは輪廻するのか。本から学ぼうが、自分で考えようが、いまだに答えがでない問いのひとつがこれだ。そしてこの問題と相まってわたしが長いこと考えているのは、主体の問題だ。自我の問題。不壊の「わたし」はあるのか。


 よく聞くのは、唯物論の文脈による主体批判だ。それによると、主体などない、すべては環境の影響にすぎない、個とか自我とかいったものはすべて社会的につくられたもので、天性のものなどほとんどない、などなどという。この考えをわたしが支持していないということは、これまでの考察にあらわれていると思う。しかしそれとはまったく別の意味で、主体、魂などないのではないか? という問いがある。


 人間存在は雲とか波にたとえられる。それらは常に形を変え、あらわれたり消えたりし、実体らしい実体があるのかもよくわからない。それは風なのだろうか、水滴なのだろうか、その集合、その相互作用なのだろうか。わたしの存在もこれに似ている。そのときどきの気分、そのときどきの感情、そのときどきの感覚などなどでわたしはできている。はたしてわたしの実体はどこにあるのか。このわたしなどというものは幻想ではないのか。その幻想が眺める世界もまた、幻想ではないのか。


 わたしは文字どおり宇宙の一部だし、地球の一部だ。わたしの傷は人類の傷で、人類の苦悩はわたしの苦悩だ。伐採される木々はわたしだ。路上で死んでいる猫はわたしだ。このわたしは、一粒の水滴のように、大海の一部ではないのか。それは一粒ではあるが、同時にほかの水と不可分でもある。すべては雲のようで、波のようで、実体がない。実体のないものを、実体があると思いこんでいるだけなのではないか。それは夢に似ている。



 答えを提示することがこの文章の目的ではないし、答えを提示できる人などいないのだろう。はじめに見たように、すべては自分で考え判断し洞察にいたるよりほかにはない。誰か悟りに達した人がいたとして、その人のいうことを鵜呑みに信じただけでは悟ったとはいえまい。このことは科学や唯物論にもいえる。多くの人はそれらをただ鵜呑みにしたにすぎない。それは、迷信や信仰とどう違うのだろうか。わたしには同じに思える。自分で観察し、考え、結論に達した人がどれだけいるだろうか。


 なかでも、唯物論的な世界観をむやみにふりまわす人物は多い。いわく、どうせ死ぬのだから、とか、魂などない、などなど。彼らは思考停止に陥っているとわたしは思う。どんなにそうである可能性が高くても、そうでない可能性は常に残る。どうやらそうらしいという考えに達したからといって、さらなる可能性を考えない理由にはならない。こうして、神の問題、宗教の問題、人生や存在の問題が真剣には問われなくなる。これが人間性を低下させる。



 知性、人間性、軽信性、これらの問題はまるで自覚されていないようだ。その証拠はいたるところに見いだせる。なまなかな屁理屈屋が理論をふりかざし、人間的でない人物が発言力を持つ。自己欺瞞がはびこり、精神という言葉は病理的にのみ理解される。多くの人たちは現実逃避にいそしみ、なにも見ず、なにも考えない。軽信だけでは飽き足らず、極端な信仰に走る場合すらある。国家を信仰したり民族を信仰したりする。知性が衰退し精神が荒廃している。


 こうしてこの問題は冒頭に戻り、小さな円環を閉じる。



 *



 いつもながら早足であることは自覚している。が、極力、読みやすいように、わかりやすいようにと心がけた。

 哲学書などを読むたびに、この人たちは直観や洞察にあわせて言葉を酷使するあまり、かえって難解になりすぎると感じる。しかし深い洞察とは本来単純なものだ。愛とはなにかという難問を、子供でさえわかっているように。

 わたしの尊敬する何人かの非常に知的な詩人たちは、哲学的な考察をしても極端に難解な書き方をしない。それは彼らが言葉の専門家だからだ。この専門家は、言葉の限界をわきまえている。論理のみでは届かないものがあると知って、そうしないのだ。それは、どうやら、この世界は合理的にできているわけではないらしいからだ。

 量子論が明らかにしたところでは、物理法則にすら矛盾があるということだ。宇宙や世界についての最新の科学的仮説は観念論によく似ている。現実世界がこのようにあやふやなとき、主体的に直観されたこと、洞察されたことこそ信に値するのではないだろうか。こうしてなにかが主体的に悟られるとき、言葉による説明など悪あがきのようなものにすぎない。

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