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2016年10月14日金曜日

嫌煙宣言

受動喫煙による死者1万5千人。受動喫煙による害は「確実」、日本の受動喫煙対策は「世界でも最低」。

料理店・酒場などは客観的に考えても理にあわない。
そこは、味や香りを楽しむところだ。
異臭ですべてが台無しになってしまう。
喫煙者に媚びを売って全面禁煙にしない店は、自分たちの料理に誇りを持たず、非喫煙のお客をないがしろにしていることになる。(スタッフの健康も)

マナーも悪い。
うちのあたりではポイ捨てだらけだ。
都内でもひどいところがあった。

常々思うに、喫煙者には人間的な欠点が目立つ。
  • みずから中毒になる愚かさ
  • 自分さえよければいいというエゴ
  • やめられない意志の弱さ
彼らに接するといつも、自分に甘いという印象を受ける。(これはわたしの女友達もいっていた)
よく知られたことだが、一部の文化圏では喫煙者は低く評価される。高い地位に就くこともできない。
なぜなら、自分を律することもできず、他者を配慮もできない人間が、管理職に向いているだろうかという疑問がわくからだ。
部下には厳しいくせに自分には甘いという、喫煙と同じ状況が起こるかもしれない。
悪習の背後にある、人間性が問題なのだ。

副流煙は一時のものではなく、その場を離れても服に臭いがついてしまう、風呂に入るまで体から取れないなど、いまさらいうことだろうか。
もし、わたしが悪臭のするスプレーかなにかを誰彼構わずかけたら、怒られるか補導されるに違いない。
しかしこれと同じことが日常的に行われている。

例によって例のごとく、日本は人権がぼろぼろだ。
自動車vs歩行者、喫煙者vs非喫煙者、などのような図式になったときに、必ず強いほう(害を与えられるほう)が優先されてきた。

嫌煙の気風も弱すぎるように思う。
それは、ほとんどの非喫煙者は不快だという態度を表明せずに我慢してしまうからだ。
だから、わたしはあえて強く非難する。

2016年10月12日水曜日

アウトサイダー(ウィルソン)

アウトサイダーとは、事物を見とおすことのできる孤独者なのだ。それは不健全で神経病的な人間にすぎぬとする反対論に対して、ウェルズの主人公は答える――「盲人の国では片目の人間が王である」要するに、病におかされていることを自覚しない文明にあって、自分が病人であることを承知しているただひとりの人間がアウトサイダーなのだというのが、彼の主張である。本書でのちに問題とするアウトサイダーのなかにはこれをさらに推し進めて、病にかかっているのは人間性そのものであり、この不快な事実を正視する人がアウトサイダーであるとさえ断言するものがある。

自由とは、他の何物にもまして重い荷を背負うことであり、すべての人間に、自分でものを考え、善悪の問題を解決したうえで、その解決にのっとって行動せよ、国家や社会や家庭のために生きるのではなく、真理一途の人生を送れと呼びかけることなのだ。しかし、人間に対するもっと思いやりのある態度とは、人間を虫けらと考えることではなかろうか。永遠なる人生などといったところで、この種の人々には、とんでもない迷信としか受け取られぬであろう。いつの世にも、少数ながら、みずからを裁くことによって自由の理想を実現すべく努めるものがあり、この種の人間のみが孤立の苦悩を知る。

人間は、迷妄の底に深く沈み、自分を高く買う習癖に落ちこんでいるため、自己を知ることなど思いもよらぬのである。こういう見方をすることがアウトサイダーにとってたやすいのは、世の常となっている自己欺瞞を見抜きとおす鋭さがあるからだ。男も女も、すべての人間は、この自己欺瞞を通じて感情どおりにすべてを解釈する。それを見抜いた場合には、世の男女に対するスイフト流の軽蔑に落ちこむのが普通であり・・・(後略)

ヒューマニズムとは、精神的な怠惰の別名にすぎない。つまり、数学や物理学の世界を相手にすることに没頭するあまり、宗教の範疇については頭を悩まそうとしない科学者や論理学者の採用する曖昧な、生半可の信条、それがヒューマニズムなのである。

アウトサイダー(ウィルソン)