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2016年8月26日金曜日

ミニマリズム・ものを持たないということ

これは実は、ただひたすらものを減らそうというのが趣旨ではない。
  • ものひとつひとつについてよく考えるようになる
本当に必要か? なぜ必要か? 自分はどういう人生を生きたいのか? そのために本当に必要か?
  • ものにとらわれず自由になる
ものは持っていればいるほどかえって煩わされるものだ。
たとえば、壊れたり傷ついたときにイライラしたりする。メンテナンスや整理に時間を取られたりする。
人間がものをコントロールしているように見えて、実は、ものに振り回されてしまっている。

たとえば、わたしは携帯を持っていない。
わたしが書斎型の人間で、いつでもPCが使えるし、必要ないからだ。
そうすると集中しているときに煩わされることもなくなり、常に気にする必要がもはや全然ない。
完全にプライベートが確保できる。
冷蔵庫もないし、洗濯機もない。
このあたりのチョイスは人それぞれだが、わたしは遊牧民のようにいつでも気軽に移動できる状態でありたい。あとはなるべくエコでありたい。

なかには、もう本当になにもかも削ってしまうという人もいる。
たとえばどこかの民族のように床で食事もできるだろう。
けれども、心が貧しくなりそうという理由でわたしはそこまでしない。
豊かさのバランスをとること。

よく考えずにふっとものを買ってしまうと後悔することがある。大きすぎた、ものが増えてしまった、100均は質がダメだ、など。
特に100均はしょせん安物なので部屋が安っぽくなる。愛着もわかない。本当に必要なものなら、なるべくいいものを買って長く使う。

たったひとつのつまらないものに、数か月以上考えていることがある。
それは、たぶん、本当は必要ないのだろう。贅沢品は迷う。あるいは、なくても大丈夫だが便利になるもの。でも便利さは追求するときりがない。
いま、わたしたちは家事ロボットとか、メイドロボットとか、そういうものは持っていない。でも、不便だから不幸だとは思っていない。
不便さや便利さは、幸福や豊かさとは関係ないのだろう。
家電三種の神器がなかった時代の人たちだって、あるいは江戸時代の人たちだって、もしかしたらわたしたちより幸福だったかもしれない。

有名な話だが、いま、追いつけ追いこせ上へ上へとやっている国の人たちがアメリカに追いつくと、地球が4つあっても足りなくなる。
だから、消費を減らし廃棄も減らす人たちは大いに世界に貢献していることになる。

この、個人がどんどん自由になって、新しい価値観を創造していく時代にあって、もの=企業やメディアに振り回される生き方はとってもダサイとわたしは思う。
しかも、人々は実際には全然幸せではない。日本人の幸福度はとても低い。会社にこき使われて、たくさん働いて……
経済至上主義・拝金主義の弊害として、環境問題や精神疾患や過労死・自殺などがある。
でも、金とものを追求して、それで最終的にどうなるのか? どうなりたいのか? というビジョンがここにはごっそり欠けている。
ミニマリストは人生を考える。
どうしたいのか? どうなりたいのか?

たとえばわたしなら、空を眺めているだけで嬉しくなれる。雲は美しいし、ひなたぼっこをしているだけで幸せだ。ぶらっと図書館へ行ってみたり、自然のなかで本を読んだりするのもいい。
ものなんかいらないから、こういう人生のほうがいい。
たくさん稼ぐ必要がないので、ぎりぎりのところで生活すればよく、いろんなことを考えたり読書したり執筆したりできる。もしそうしたければ市民活動とかボランティアとかもできる。
もともと希死念慮のあるわたしは、死ぬときは死ねばいい。と思っている。
人間は、本当は、自分の生死さえコントロールできない。

自分の人生と生活のビジョンを持つことができれば、それに即して必要・不要を判断できるようになる。そうしてどんどん自由になれる。心が自由になる。
どう生きたいのか?
どんな人間になりたいのか?
人生の最終的な目標はなんなのか?
考える。

2016年8月13日土曜日

街・地域・技術についての雑考(おまけ:文章の陳腐化)

引っ越しばかりしていて、ここ数年のうちに5か所は移動している。
最近また引っ越しをして、いま、机もないわたしは、椅子だけあるそのうえにPCを置き床に座してこれを書いている。

そんなことはさておき。

街についての一考を徒然に思った。
新居のある地区にはY駅・T駅・G駅とあって、わたしの最寄りはT駅だ。
駅間は1.8kmくらい。T駅はちょうど中間になるので、この3駅間は自転車で簡単に移動できる。
都心にあるような駅とはむろん違うが、どの駅まわりもそれなりに発展している。
百貨店などはないが、デパートありレストランあり飲み屋ありといった規模。
この3駅、並んでいるわりには意外と雰囲気が違う。

2線が乗り入れ、都心に一番近いY駅。
駅ビルあり、外に出ると飲み屋の多い印象。例によっていくつものパチンコ屋。人も多くごみごみしている。

都心からは(ほんの数分)遠ざかるG駅。
雑居ビルに入った飲み屋、通りの広い商店街。アーケードまでついているが、人の数という意味では閑散としている。

そしてわたしの最寄りT駅。
駅を出て真っ正面が巨大な並木道。通常の車線に加えて自転車用・バス用の広い路側。駅周辺にあるのは、ちょっとしたモール、大手デパート、レストランなど。飲み屋とパチンコ屋はかなり少ない。

どの駅も生活圏だが、特にT駅の南側は住宅地としては理想的に見える。
団地のおかげで地域全体に緑が多く、トロントを思わせる巨大並木通りはこの真夏でも広い道路全体が日陰になるほど。
この地区は東西南北に計3本、大きな並木で交通量の少ない優良道路が短いながらのびていて、この3駅をつないでいる。
木々の小さなみみっちい並木ならどこでも見かけるが、この3道はそうではない。
狭い範囲ながら、自転車・歩行者・走者に親切な都市設計といえる。
こういう街は日本ではあまり見かけない。

普段から思っていたことを、引っ越し屋さんとも話した。
なにかにつけ都心に出るようなライフスタイルだと、住んでいる地域の街がすたれてしまう。
通販の多用も同じ結果を招く。
地域と関係ないどこかほかのところへお金がいくため、地域の店がみんなつぶれてしまう。
東京だけにすべてがあって、ちょっと郊外に離れると住宅しかない、という風になりかねない。いままで以上に、そうなりつつある。

技術の時代にあっては、以前は想像もされなかったような、意識的な生きる態度が必要と思う。
街や地域の問題のみならず、技術によって起きる弊害を意識的に克服する必要がある。
それには、発想や日常の行動を変えるだけで実現できることもたくさんある。

追記 9.6

わたしの住んでいるあたりは、日本全体そうだけれども特に民度が低い。
誰も彼もが路上喫煙していて、そこらじゅうポイ捨ての吸い殻だらけ。
これまでずいぶんいろんなところに住んだが、これはひどい。
都心はだいたいどこも全面禁煙だと思うけど、こういう人口ばかり無駄に多くてルールづくりがなっていない街は一番タチが悪い。
日本はダメだとつくづく思う。腐っている。いくら金があったって、人間がこれじゃあ……

余談

「書くために」書かなければ、と思って書いた。
本当は、作品の文章価値も、ブログの文章価値も同じと思う。
だから、なんにしても時間をかけて推敲し緻密に書くべきと思っている。
ブログという形式はそれに適していない。
それどころか、技術の時代では、ちょっと有名人なら誰もが出している大量の本また本、無名人でも猫も杓子も書いているウェブ文章などなど……明らかに文章の価値は陳腐化している。
練られていない文章、その場の思いつきだけの話題、という点で。
さらにまた、どんな素人でも開陳できる駄文・愚論という点で。

「印刷術の発明は、読者の数を激増して、詩人や作家を大衆に従属するものとしてしまう。以前は詩人も作家も、彼らの貴族、すなわち、精通者と学識者にしか従属しなかったのであるが」アスリノー

文章のみならず、技術と商業の名のもとに、なにもかもが陳腐化している。

2016年8月3日水曜日

火箭・赤裸の心(ボードレール)

静かな水のうえにかすかにゆれ動いているあの美しい巨船、のどやかにしかも郷愁を抱くかに見えるあのたくましい船舶は、無言の言葉で我々にこう告げているのではあるまいか、「いつわたしたちは、幸福へ向かって出発するのか」と。

多少とも歪んでいないものは感銘を与えないように見える。その結果、規則はずれ、すなわち、思いがけないこと、虚を突くこと、びっくりさせることが、美の本質的な一要素であり、また特徴である、ということになる。

わたしは「美」の、自分の「美」の定義を発見した。(中略)
不幸という感じを持つことが必要なのである。わたしとて、「歓喜」と「美」とは結合し得ないと説く者ではないが、ただ、「歓喜」は「美」の最も卑俗な装飾にすぎないと断言する。これに反して、「憂愁」は「美」のいわばろうたけたる伴侶であり、およそ「不幸」の存在しない「美」というものがわたしには全然考えられないくらいである。

なにゆえに民主主義者が猫を好まないかは、察するに難くない。猫は美しい。そして奢侈、清潔、逸楽などを連想させる。

「進歩」思想よりも馬鹿げたものがあろうか、というのも人間は、日ごとの事実によって証明されているように、常に人間に似ているし人間と等しいからである。つまり、常に野蛮状態にあるからである。文明社会の日ごとの衝突や軋轢と比較するとき、森や野原の危険のごときはよくよく何物であろう。人間が街頭で自分のだましおおせた相手を抱きしめようと、人知れぬ森のなかで餌食を突き刺そうと、結局それは万代不易の人間、すなわち、もっとも完全な肉食獣ではないのか。

人間、すなわち各人は、道理にかなった階級制度が確立することは苦にするが、世をあげて低下することは一向苦にせぬほど、きわめて自然的に堕落している。

さりながら世界の破滅、あるいは世界の進歩(破滅でも進歩でも名称はどちらでも構わぬ)が、はっきりとあらわれるのは、別段、政治上の制度によってではない。それは人心の低下によってあらわれるであろう。

火箭

***

人類進歩を信ずるのは怠け者の学説だ。
(中略)個々の人が、自分の仕事をするのに隣人たちをあてにすることだ。
進歩(真の進歩、すなわち精神上の進歩)は、ただただ、個人のなかにしか、また個人自身によってしか、ありえない。
しかるに世界は、共同でなければ、徒党を組まなければ、ものを考えることのできない輩によって形成されている。

広告を見ると激しい嘔吐をもよおす。

真の文明の理論。
真の文明は、ガスのなかにも、蒸気のなかにも、回転テーブルのなかにもない。真の文明は原罪の痕跡の滅却にある。
水草を追う民、遊牧の民、狩猟の民、農耕の民、さては食人族さえも、すべて、その精力により、その個人としての品位によって、われら西欧人に優っているかもしれない。

商業は悪魔的だ、なぜかと申せば商業は、もっとも卑賤なそしてもっとも下劣なエゴイズムの一形式だからである。

世界はただただ誤解によって動いているにすぎない。

あらゆる観念は、それ自体によって、ひとりの人間と同じように、不滅の生命を授けられている。
創造された一切の形式は、人間が創造したものさえ、永劫不滅である。なぜかと申せば形式は物質から独立しているからであり、かつ、形式を構成しているものは分子ではないからである。

進歩の法則が存在するためには、各人がその法則を創造しようと望まなければなるまい。つまり、すべての個人が進歩しようと専念するとき、そのときこそ、はじめて、人類は進歩するであろう。

赤裸の心