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2016年1月25日月曜日

空疎さ、時代の虚無

 実家のある地元というのはどうしようもない田舎で、どこともつながっていない。街ともつながっていないし、駅ともつながっていない。陸の孤島だ。歩いても歩いてもどこにも到達しないし、あるのは、嘘みたいな住宅地と、田んぼだけだ。唯一、太い川と細い川と二本流れていて、その土手はそんなに悪くもないが、しょせんは田舎の景色なのですぐに飽きてしまう。
 高度成長期に無理やりつくった、いわゆるニュータウン。住民の誰ひとりとして地域で活動しないし、ろくな商店もないので、日用品ひとつのために隣町までのこのこでかけていく。都心まで二時間かけて通勤し、犬小屋みたいに、ただ帰って寝るだけの土地。そんなライフスタイル。空疎だ。時代を象徴する虚無を感じて仕方ない。内実をともなわない本当の貧しさ。浅はかさ。

エッセイ『歩く』より抜粋

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上記一部のみ、加筆修正しました。

このことは昔からどこかで言いたかった。
ずっと以前、「虚無の世代」という言葉をいった知人がいた。
うわべの豊かさばかりで、生活そのもののなかに、なにもない感じ。
地域の活動とか、人とのつながりが、なにもない感じ。
街でもなく、自然でもない、無機質な原風景。
虚無の世代は、こういうところから生まれてくるのかもしれない。

街ひとつ満足につくれない、中央集権が悪いとは思いつつ、あまりに愚かすぎる。
ラッシュ、人口稠密、ギスギス、みんなここから起こっている。

2016年1月24日日曜日

エセー(モンテーニュ)

けれども、体のしくみというのは、ふつうはこれと反対であって、もっともいい状態とは、なにも匂いがしないときなのだ。もっとも澄んだ息をかいだときの気持ちよさにしても、健康な子供の息のように、いかなる匂いも感じられない場合に比べるならば、 優れたところなど少しもない。(中略)昔の詩人たちのいう、「いい匂いは、くさい匂い」という警句にしても、ここからきている。
(中略)
ポストゥムスよ、いつもいい匂いをさせている人は、つーんと匂っているにすぎないのだ。(マルティアリス『エピグラム』)

とくにわれわれのように、自分だけにしか見えない私生活をおくる人間は、内面にしっかりした規範をつくっておいて、われわれの行動の試金石としなければいけないし、その規範にのっとって、ときには自分を優しくなで、ときには懲らしめる必要がある。わたしは、心のなかにわが法律と法廷をもっていて、自分を裁くのだし、ほかのどこよりもここに出向いていく。自分の行為を制限するときは、他人にあわせるものの、それを広げるときは、自分だけにしたがう。あなたが臆病で残酷なのか、あるいは忠実で献身的なのかを知っているのは、あなたしかいない。ほかの人たちに、あなたは見えない。あやふやな推測によって、あなたのことをおしはかるだけで、あなたの本性ではなく、技巧を見ているにすぎないのだ。
(中略)
心の内面までも、しっかりと秩序を保てるような生活は、じつに希少なものといえる。田舎芝居に加わって、舞台ではりっぱな人間を演じることなら、だれにでもできる。でも重要なのは、すべてが許され、すべてが隠されている心のうちで、つまりは、内面において規律正しいことなのだ。その次の段階、それは家のなかでの、だれにも説明しなくてもいいようなふだんの行動のなかで、つまりは、なんの計算も技巧もいらないような場所で、規律正しいこと。だからこそビアスも、すぐれた家庭のありさまを描くにあたって、「一家の主人が、家のなかで自然にしているのが、外で、法律や人のうわさを気にしているのと同じような状態であることだ」といったに相違ない。

わたしは快楽と禁欲の双方に通じているから、はっきりいう資格がある。(中略)おろかで、いまにも崩れ落ちそうな自尊心、退屈なおしゃべり、とげとげしく、人づきあいの悪い性格、些末なことへのこだわり、そして、使い道もないのに、財産のことをばかみたいに心配することだけではなくて、老いのなかには、ねたみや、不公平さ、いじわるさなどがたくさん見つかる。
老いは、顔よりも、精神に、たくさんのしわをつけるにちがいない。年老いたからといって、すっぱいにおいや、かびくさいにおいがしないような魂など、まずめったに見つかるものではない。成長に向かうときも、減退に向かうときも、人間は全身で進んでいくのである。
(中略)
老いというものが、わが知己の面々に、毎日毎日、なんと多くの変貌をもたらしていることか。それは強力な病なのであって、ごく自然に、気がつかないうちに進行していく。老いという病気がわれわれにうつす欠陥をさけようとするならば、あるいはその進行を遅らせようとするならば、十分な努力の蓄積がなければいけないし、大いに用心してかからなければいけない。


エセー(モンテーニュ)

2016年1月23日土曜日

スラップスティック(ヴォネガット)

わたしはアメリカ人の孤独について語った。選挙に勝つために必要な話題がそれだけだということは、幸運だった。わたしの持っている話題はそれしかなかったのだ。
アメリカの歴史のもっと早い時期に、わたしがこの簡単で実用的な孤独退治の計画をひっさげて登場できなかったのは残念だ、とわたしはいった。過去のアメリカ人の有害な行き過ぎのすべては、罪悪への好みというより、むしろ孤独によって触発されたものだ、とわたしはいった。
ひとりの老人が演説のあとでわたしのところへはい寄ってきて、こういった――むかし自分は生命保険だの投資信託のだにはいったり、電気器具だの自動車などを買ったりしたが、それはそんなものが好きだったり必要だったりしたからではなくて、セールスマンが自分の身内になってくれそうな気がしたからだ、うんぬん。
「わしには身内がいないし、身内がほしいんだよ」その老人はいった。
「だれもがそうです」わたしは答えた。
老人は、酒場の人たちのなかに身内をつくろうとして、いっとき飲んだくれたことがある、とわたしに話した。
(中略)
「もし、あんたが当選したら、わしにも人工的な身内ができるそうだが――」と、その老人はいってから、間をおいた。「どれぐらいの人数だといいなさったかね?」
「一万人の兄弟姉妹です」と、わたしは答えた。「それに、十九万人のいとこ」
「そりゃまた、えらく大勢だのう」
「こんなに大きくてぶさまな国に住むにはありったけの身内が必要だと、いまさっき、わたしたちの意見は一致したばかりじゃありませんか。たとえばですよ、もしあなたがワイオミングへ行くことになったとする。そこに大勢の身内がいるとわかっていれば、心強いと思いませんか?」
彼はしばらく考えた。「うん、まあ――そりゃそうだ」あげくのはてにそういった。
「さっきの演説でもいいましたが」と、わたしはつづけた。「あなたの新しいミドル・ネームはひとつの名詞、たとえば、花か果物か木の実か野菜か豆類、でなければ鳥とか爬虫類とか魚とか、軟体動物とか、それとも宝石や鉱物や化学物質の名前と――それに一から二十までの数字をハイフンでつないだものになります」わたしは彼に現在の名前をたずねた。
「エルマー・グレンヴィル・グラッソ」と、彼はいった。
「では」と、わたしはいった。「あなたはエルマー・ウラニウム-3・グラッソということになるかもしれませんよ、たとえばね。すると、ミドル・ネームの前半分にウラニウムとついている人間は、みんなあなたのいとこになるんです」

(その後いろいろあって、主人公は上記の人工的な家族会議に出席する)

わたしは深い感銘を受けた。国家は決して自己の戦争を悲劇と認めることができないが、家族はそうできるだけでなく、そうせずにはいられないのだ。

(議題が変わる)

彼女の子供たちは、ひとりで歩けるようになるが早いか家出をして、もっと家事の上手なうちへ住みついたという。これこそ、イライザとわたしの発明のいちばん魅力的な特徴だと、わたしは思う――子供たちは、とてもたくさんの家庭と両親のなかから、自分の好きなものを選べるのだ。

スラップスティック(ヴォネガット)

2016年1月17日日曜日

七つの夜(ボルヘス)

作家あるいは人は誰でも、自分の身に起きることはすべて道具であると思わなければなりません。あらゆるものはすべて目的があって与えられているのです。この意識は芸術家の場合より強くなければならない。彼に起きることの一切は、屈辱や恥ずかしさ、不運を含め、すべて粘土や自分の芸術の材料として与えられたのです。それを利用しなければなりません。だからこそわたしはある詩のなかで、昔の英雄たちの食物、すなわち屈辱、不運、不和について語ったのです。それらが与えられたのは、わたしたちを変質させるためであり、人生の悲惨な状況から永遠のもの、もしくはそうありたいと願っているものをつくらせるためなのです。

盲目について

2016年1月15日金曜日

続審問(ボルヘス)

わたしは世間である程度の評価をうけているものを検討してみた。宇宙の痕跡が認められる唯一の整合がショーペンハウアーのものであることを、わたしはあえて主張したい。彼の説くところによれば、世界は意志のつくりだした虚構である。芸術は――常に――可視の非現実を必要とする。ほんの一例をひけば、芝居の登場人物たちがしゃべる、比喩に満ち、言葉数が多く、わざと何気なくしたせりふがそうである。われわれはすべての観念論者が認めていることを認めよう。すなわち、この世界の本質は幻影である。われわれはすべての観念論者がしなかったことをしよう。すなわち、その本質を確証する非現実をさがそう。そのとき、われわれはそれをカントの二律背反のなかに、ゼノンの弁証法のなかに見いだすだろうとわたしは信じる。
「最大の魔術師とは(ノヴァーリスが忘れがたい一文を記している)、われと自らつくりだした幻影を自然に生まれた亡霊と錯覚するほどに自分を欺きおおせた魔術師のことだ。これはわれわれにも言えることではないだろうか?」そのとおりだとわたしは思う。われわれ(われわれのうちにあって活動する不可分の神性)は世界を夢想した。われわれはそれが強靭で謎めいて可視的であり、空間において遍在し時間において永続すると夢想した。しかし、にせものであることがわかるように、われわれはその骨組みに、微細で永久的な不合理のひびをいれておいたのだ。

亀の化身たち

「この世にあって、おのれの何者なるかを公言できる人間はいない。自分がなにをするためにこの世にきたのか、自分の行為・感情・思想と照応するものが存在するのか、自分の真の名前、光の登記簿に記された不滅の名前がなんなのかを誰も知らないからである。……歴史は一冊の膨大な祈祷書であり、そこに記された文字の一点一画も全節あるいは全章と同じように価値があるが、両者の重要性は決定不能で奥深く秘されている」(『ナポレオンの魂』レオン・ブロワ)。マラルメによれば、世界は一冊の書物のために存在する。ブロワによれば、われわれは魔法の書物の節ないし単語ないし文字である。そして、この不断に連続する書物はこの世にある唯一のものである。というより、その書物が世界である。

書物崇拝について

2016年1月7日木曜日

魂と舞踏(ヴァレリー)

ソクラテス 言ってくれたまえ、なにか特効薬を、とりわけよくきく解毒剤を、きみは知ってはいまいか、あの病のなかの病、毒のなかの毒、自然というもの全体に敵対する毒液のための…?
パイドロス どんな毒液です?
ソクラテス どう名づけよう、生きることへの倦怠、とでも? ――こういう意味なのだ、どうかわかってほしい、つかの間に過ぎ去る倦怠ではない、疲労による倦怠ではない、萌芽が見えている倦怠でもないし、限界の知れている倦怠でもない。あの完璧な倦怠、あの純粋な倦怠、不運や障害が起源ではなく、あらゆる境遇のうち、じっと見つめてもこのうえなく幸福に見える境遇とも共存してしまう倦怠、――要するに、生それ自体以外にいかなる実質も持たず、生きている人間の明察のほかに第二の原因などのない倦怠のことを言っているのだ。この絶対的な倦怠は、それ自体として、生がおのれみずからを明晰に見つめるときの、まったき裸形の生にほかならない。
(中略)
ソクラテス エリュクシマコスよ、わたしはきみに訊いていたのだ、はたして治療法はあるのだろうか? と。
エリュクシマコス それほどまでに理にかなった病をなぜ治療するのです? 確かに、物事をありのままに見ることほど、それ自体としてこれ以上病的で、これ以上に自然に敵対するふるまいは、なにひとつありはしない。実際、なにひとつありません。冷徹で完璧な明察は、戦いの相手とするには不可能な毒です。

魂と舞踏(ヴァレリー)