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2016年11月22日火曜日

【作品】 知性について・人間性について


 これは草稿として書かれたもので、おそらく決定稿は存在しない。思索は常に進展するからだ。また常々、論理的な記述にはさしたる意味がないと考えてきた。だから、雲がちぎれ飛ぶように、散漫な思考の過程を記すにすぎない。その背景にあるのは印象と直観をもとにした洞察で、論理ではない。



 ものの本を読むと、いくばくかの心ある人たちが知性の衰退を嘆いている。またいくばくかの心ある人たちが人間精神の荒廃を嘆いている。最近では反知性主義などという言葉すらあるほどだ。これは知識階級、知識人、この手の人たちへの不信ゆえだろうか。しかし彼らは本当に知的なのか。そもそも知性とはなにか。


 この難問を考えるとき、すでに論理は無力だということを予感せざるをえない。おそらく、それは厳密には語れないのだ。それは、美とはなにかとか、芸術とはなにかとか、そういう問いに似ている。山ほどの研究書、山ほどの哲学書、山ほどの文学作品を積みあげてさえしかとはいえないように。


 考えようによっては、知性とは感性と直観力の融合なのではないか? と思うこともある。なぜなら、科学者とか理論家のような人たちでさえ、まずはじめにあるのは世界を観察する感性だからだ。やがて直観が閃き、深い洞察にいたる。風呂の水があふれた例だとか、木からりんごが落ちた例だとか、いちいちあげるには及ぶまい。彼らが理論を構築するのはずっとあとだ。決して理論がはじめにあるわけではない。


 反対に、理論からはじめて、それを山ほど積みあげたあげくある洞察へ到達するということはほとんど考えられない。これはたとえば詰めこみ教育などを参考にすれば明らかだろう。なにか創造的な仕事をするとき、理論からはいる人はほとんどたいしたことはなしえないのだ。


 なかには、感性と直観のみでなにか深い現実をつかんでいるといったような場合もある。すぐれた宗教家や本物の芸術家などだ。普通これは知性とは考えられていない。しかし、東洋思想や高徳の僧侶らが達した境地を、叡知でないと断言するのは早計ではなかろうか。少なくとも、彼らは確かに現実世界を明察している。その対象が世界にしろ、人間にしろ、表面的な事実の背後にひそむ本質を見抜いている。だが、彼らの精神の働きについて語るのは難しい。ここではもう少し一般的な知性について考えたい。


 おそらく、知性とは人間的な能力の総合とその調和なのだろう。感性に、直観力に、洞察力に、想像力に、論理的思考力、などなど。これらはほんの一例にすぎず、これ以外の能力もたくさん必要に違いない。こういった数々の能力のうちどれかが欠ければ、あるいは低ければ、総合的な知力は落ちるだろう。そのなかには知識も含まれるし、経験も含まれるだろう。


 ところが、これらの調和を一切無視して、知識もしくは経験のみの人物というのがいる。残念ながら、この種類の人物がいかに世界に対する洞察に欠けるか、こればかりは知る人ぞ知るで説明できない。彼らは世界の表面だけをなぞって、なにかわかったようなことをいう。だが彼らが深いところまで見えていないということは、わかる人にはわかる。こういったことは立証したり論難したりできないので、洞察するよりほかにはない。


 結局のところ、この問題は禅でいう「不立文字」に近い。言葉で説明することはできず、理屈でもない。むしろ、ただひたすら洞察あるのみなのだ。これこそ知性の、いや、ほとんどすべての事柄の特徴なのかもしれない。言葉や論理がなにかを説明しうるというのは幻想なのだ。


 あまりに、知識と理論ばかりつめこんで、そのじつなにも見えていないという人物が多すぎる。この人たちは自分で考えていないのだ。教わったことや、聞いたことや、読んだことを、ただただ鵜呑みしているにすぎない。しかし、すべては自分で観察し考えるところからはじめなければならない。なにかを学んだら、改めて独自に考えてみなければならない。知識の鵜呑み、理論の鵜呑みはむしろ知性とは正反対のものだ。それは結局は葬り去ったはずの迷信をよみがえらせているにすぎない。


 知性とはなにか。別の言葉でいえば、それは単純に「人間」だということなのだ。この人間は常に生まれたばかりの子供のように驚嘆して世界を眺め、どんなささやかなことにでも疑問を持つ。落ち葉ひとつ、雲ひとつ、どんなことだって驚異でないものはないし、思考を刺激する。人のいうことを鵜呑みにせず、どんなに時間をかけても必ず自分で考え直す。彼は決して感じ考えることをやめず、よりよく見たい、よりよく知りたいと願っている。


 この人間は当然のように最大の謎を考える。宇宙の意味、人生の目的、人間とはなにか、自分はどこからやってきて、どこへいくのか。この難問に対して、彼は決して思考停止に陥ったりはしない。明確な答えはないかもしれず、悟りはないかもしれない。しかしそうではないかもしれない。少なくとも、問い考え続ける限り、彼のなかで認識は深まっていく。これこそ人間の姿に思える。


 この意味において、学者であるとか、専門家であるとか、ある特定の知識にのみ詳しいとか、そういったことはすべて知性を保証しない。この人間の姿は、市井のなかにも、詩人のなかにも、見いだしうるものだ。それは職業ではないし、肩書きでもない。



 このような知性はどこにあるかと見わたすとき、周囲の惨憺たる状況にあ然とせざるをえない。図体ばかり大きいたくさんの子供たちが、いくつになってもおもちゃに夢中になっている。この子供たちは数限りなく提供されるおもちゃに現実逃避し、それでいて文句ばかりいう。幼稚で陳腐なものがもてはやされ、選ばれた子供代表団ときては懲りずに戦争ごっこをしたがる。子供の国というのはどこかのおとぎ話ではなくて、実際の地上にある島国なのだ。


 そこで次の問いが生まれる。はたして、教育は可能なのか。人間、主体的で感受性にとみ、直観と洞察をもとに本当に考えることができ、死ぬまで成長を続ける、人間存在をつくることははたして本当に可能なのか。


 こう自問するとき、「否」というほうに傾くのを否定できない。確かに、教育は社会人をつくることはできるかもしれない。この社会人はその文化圏での常識につうじ、労働し、納税し、法律をある程度は守る。教わった知識を丸暗記し、多少は応用し、技術や商品を開発したりする。しかしこの社会人は、すでに考察したような人間像にはまるで似ていない。


 この国では詰めこみ教育もしくは教わったことを鵜呑みにする人材を大量生産し、いくばくかのましな国では議論などを中心にした比較的自由な教育がおこなわれている。前者は自分で考えられないし、後者はある程度自分で考えられるらしい。しかし感性鋭く洞察力にすぐれる人間をつくるという意味では、それらがどれほどの功を奏すのか疑いを禁じえない。


 試みまでに過去の偉大な人たちを参照してみると、知者はなんの条件もなくたまたまあらわれるように見える。時代や文明も関係なければ、経済的なことや社会状況も関係なく、遺伝すら関係ない。この実例はいくらでもあげることができる。紀元前の哲学者たちほどの明晰な洞察を、現代人は持ってはいまい。情報量、知識の総量は現代のほうが圧倒的に多いというのに。貧しい労働者階級から明察する人がでてきた例もあるし、まるで教育のないところから独学であらわれた人もいる。これらの例はすべて環境や教育といった考えを否定している。反対に、高等教育が一般化した現代でも人々はたいして目がきかないし、科学や技術の進歩も人間そのものはまるで進歩させられなかった。


 このような人間のことをなんと呼ぼう? 本当の人間、人間らしい人間、彼らは知者というよりむしろ、見者といったほうがより近いのかもしれない。人によっては、ただ世渡りがうまいだけの狡知に長けた人物を知者だと信じている場合もある。だが言葉はすべて曖昧だ。知者と呼ぼうが見者と呼ぼうが、言葉は決して厳密にはなりえない。


 これは教育批判というより、ほとんど教育の否定に聞こえる。しかしながら、ここで考えたいのは教育問題ではない。これらの考察をもとに、もっとずっと飛躍したところまで考えてみたいのだ。



 明察を求める光は人のなかでまどろんでいて、これを解き放つことは誰にもできない。当の本人を除いては。これだけ多様なメディアがあり、天にも届く大量の本があり、これだけの情報があふれている。それにもかかわらず見者というのを滅多に見かけない以上、この推論はそれなりの説得力を持つように思う。


 すると次の問いが生まれる。知性とは生来のものなのかという問いだ。容貌のように、身長のように、遺伝子のように。それらはどれも宿命的に決まっていて、基本的には変えられない。知性もそれと同じなのか。この知性とは、世界を理解したいという衝動といってもいい。


 これは倫理性についても同じことがえる。勘違いされているかもしれないが、倫理というのは主体的な衝動だ。親教師がそういうから従うとか、法律がそう要請するから従うとか、そういうことではない。彼は善悪についてよく考え、自分だけの規律を設けることができる。これに従って、よく生きたいと思う。正しくありたいと思う。宗教家が厳しい修行の道を選ぶように、偉大な哲学者がみずからを律するように、彼らはそうしたいのだ。決して外的な力によるものではない。これは生理的な欲求に似ている。美や文学への渇望も同じことだ。

 しかし、このような衝動は教えられるのか。教育が直観力や洞察力を教えられなかったように、倫理的な衝動を与えることもまたできないのではないか。ここでもまた教育の不可能性が予感される。


 知性や倫理性について考え、それらは先天的に決まっているのではないかと考えるとき、これまでとはまったく別次元の問題に行き当たる。魂の問題だ。


 知性や倫理性は本人が自分で獲得するしかないもので、それは魂の質、輪廻による成長度合いに根ざしているのではないか? そう問うこともできるだろう。そうでなければ、各人の知性や倫理性の絶大な差異が説明できないからだ。しかもそれらは内なる衝動なのだ。このような衝動が、環境や教育や遺伝によるものでないということはすでに見た。ほかに唯一可能な説明は、脳の突然変異だとかまったく例外的に特殊な個体なのだとかいった唯物論的な説明だが、ここでは立ち入らないでおく。



 魂はあるのか。それは輪廻するのか。本から学ぼうが、自分で考えようが、いまだに答えがでない問いのひとつがこれだ。そしてこの問題と相まってわたしが長いこと考えているのは、主体の問題だ。自我の問題。不壊の「わたし」はあるのか。


 よく聞くのは、唯物論の文脈による主体批判だ。それによると、主体などない、すべては環境の影響にすぎない、個とか自我とかいったものはすべて社会的につくられたもので、天性のものなどほとんどない、などなどという。この考えをわたしが支持していないということは、これまでの考察にあらわれていると思う。しかしそれとはまったく別の意味で、主体、魂などないのではないか? という問いがある。


 人間存在は雲とか波にたとえられる。それらは常に形を変え、あらわれたり消えたりし、実体らしい実体があるのかもよくわからない。それは風なのだろうか、水滴なのだろうか、その集合、その相互作用なのだろうか。わたしの存在もこれに似ている。そのときどきの気分、そのときどきの感情、そのときどきの感覚などなどでわたしはできている。はたしてわたしの実体はどこにあるのか。このわたしなどというものは幻想ではないのか。その幻想が眺める世界もまた、幻想ではないのか。


 わたしは文字どおり宇宙の一部だし、地球の一部だ。わたしの傷は人類の傷で、人類の苦悩はわたしの苦悩だ。伐採される木々はわたしだ。路上で死んでいる猫はわたしだ。このわたしは、一粒の水滴のように、大海の一部ではないのか。それは一粒ではあるが、同時にほかの水と不可分でもある。すべては雲のようで、波のようで、実体がない。実体のないものを、実体があると思いこんでいるだけなのではないか。それは夢に似ている。



 答えを提示することがこの文章の目的ではないし、答えを提示できる人などいないのだろう。はじめに見たように、すべては自分で考え判断し洞察にいたるよりほかにはない。誰か悟りに達した人がいたとして、その人のいうことを鵜呑みに信じただけでは悟ったとはいえまい。このことは科学や唯物論にもいえる。多くの人はそれらをただ鵜呑みにしたにすぎない。それは、迷信や信仰とどう違うのだろうか。わたしには同じに思える。自分で観察し、考え、結論に達した人がどれだけいるだろうか。


 なかでも、唯物論的な世界観をむやみにふりまわす人物は多い。いわく、どうせ死ぬのだから、とか、魂などない、などなど。彼らは思考停止に陥っているとわたしは思う。どんなにそうである可能性が高くても、そうでない可能性は常に残る。どうやらそうらしいという考えに達したからといって、さらなる可能性を考えない理由にはならない。こうして、神の問題、宗教の問題、人生や存在の問題が真剣には問われなくなる。これが人間性を低下させる。



 知性、人間性、軽信性、これらの問題はまるで自覚されていないようだ。その証拠はいたるところに見いだせる。なまなかな屁理屈屋が理論をふりかざし、人間的でない人物が発言力を持つ。自己欺瞞がはびこり、精神という言葉は病理的にのみ理解される。多くの人たちは現実逃避にいそしみ、なにも見ず、なにも考えない。軽信だけでは飽き足らず、極端な信仰に走る場合すらある。国家を信仰したり民族を信仰したりする。知性が衰退し精神が荒廃している。


 こうしてこの問題は冒頭に戻り、小さな円環を閉じる。



 *



 いつもながら早足であることは自覚している。が、極力、読みやすいように、わかりやすいようにと心がけた。

 哲学書などを読むたびに、この人たちは直観や洞察にあわせて言葉を酷使するあまり、かえって難解になりすぎると感じる。しかし深い洞察とは本来単純なものだ。愛とはなにかという難問を、子供でさえわかっているように。

 わたしの尊敬する何人かの非常に知的な詩人たちは、哲学的な考察をしても極端に難解な書き方をしない。それは彼らが言葉の専門家だからだ。この専門家は、言葉の限界をわきまえている。論理のみでは届かないものがあると知って、そうしないのだ。それは、どうやら、この世界は合理的にできているわけではないらしいからだ。

 量子論が明らかにしたところでは、物理法則にすら矛盾があるということだ。宇宙や世界についての最新の科学的仮説は観念論によく似ている。現実世界がこのようにあやふやなとき、主体的に直観されたこと、洞察されたことこそ信に値するのではないだろうか。こうしてなにかが主体的に悟られるとき、言葉による説明など悪あがきのようなものにすぎない。

関連:
デモクラシーからオクロクラシーへ

2016年11月9日水曜日

人はなぜ戦争をするのか(フロイト)

長期間にわたって、道徳的な手本に基づいて行動するように強いられている人は、この手本がみずからの欲動の働きの表現でない場合には、心理学的な意味では、みずからの力量を超えた生活をしていることになるのであり、客観的には偽善者と呼ばれてしかるべきなのである。それはその人がこのギャップを明確に認識しているかどうかにはかかわらないのである。そして現代の文化が、この種の偽善を異例なほど多く助長しているのは否定できないことである。現代文化はいわばこうした偽善に頼って構築されているのであり、人間が心理学的に適切な状態で生きる必要があるのだとしたら、社会の根底的な変革が必要とされているといっても差し支えあるまい。
だから本当に文化的な人間の数と比較すると、文化的な偽善者が圧倒的な多数を占めているのである。

戦争と死に関する時評

2016年11月8日火曜日

九州一周の記

以前、格安航空に乗り遅れたことがあった。
それが深い深いトラウマになって、不安のあまり出発前夜眠れない。
一睡もできず鹿児島空港に降り立った。
友の自動車で九州を一周する。
それが旅の目的だ。

長崎港
天草。こんな細道をペーパードライバーがゆく

鹿児島空港を起点に、宮崎、大分、北九州(福岡)、佐賀、長崎、天草(熊本)、鹿児島……という経路。
カメラを取りだしたのが遅かったため、写真は少ない。

あの島々の入り組んだ感じ。あの海。あの光、あの空気。
すべてを記憶に刻みつけておきたい。
世界を眺めるとき、いつだってそう願っている。
でもそれは決してかなわない。
すべての細部は、漠然としたある印象、ある感じとしてしか残らない。
でも、それは常に人のなかで生きていて、消え去ったり、死んだりはしない。

帰宅して一週間ほど、無気力に陥っていた。
旅がよすぎた。
この、つまらない日常。この、つまらない現実。
旅は忘れさせてくれる。
出発前、執筆意欲にいささか陰りがあった。
いま、また書けるようになった。
このような人種は、定期的になにかが必要らしい。

旅の詳細はこちらにある。
アヲイ報

2016年10月14日金曜日

嫌煙宣言

受動喫煙による死者1万5千人。受動喫煙による害は「確実」、日本の受動喫煙対策は「世界でも最低」。

料理店・酒場などは客観的に考えても理にあわない。
そこは、味や香りを楽しむところだ。
異臭ですべてが台無しになってしまう。
喫煙者に媚びを売って全面禁煙にしない店は、自分たちの料理に誇りを持たず、非喫煙のお客をないがしろにしていることになる。(スタッフの健康も)

マナーも悪い。
うちのあたりではポイ捨てだらけだ。
都内でもひどいところがあった。

常々思うに、喫煙者には人間的な欠点が目立つ。
  • みずから中毒になる愚かさ
  • 自分さえよければいいというエゴ
  • やめられない意志の弱さ
彼らに接するといつも、自分に甘いという印象を受ける。(これはわたしの女友達もいっていた)
よく知られたことだが、一部の文化圏では喫煙者は低く評価される。高い地位に就くこともできない。
なぜなら、自分を律することもできず、他者を配慮もできない人間が、管理職に向いているだろうかという疑問がわくからだ。
部下には厳しいくせに自分には甘いという、喫煙と同じ状況が起こるかもしれない。
悪習の背後にある、人間性が問題なのだ。

副流煙は一時のものではなく、その場を離れても服に臭いがついてしまう、風呂に入るまで体から取れないなど、いまさらいうことだろうか。
もし、わたしが悪臭のするスプレーかなにかを誰彼構わずかけたら、怒られるか補導されるに違いない。
しかしこれと同じことが日常的に行われている。

例によって例のごとく、日本は人権がぼろぼろだ。
自動車vs歩行者、喫煙者vs非喫煙者、などのような図式になったときに、必ず強いほう(害を与えられるほう)が優先されてきた。

嫌煙の気風も弱すぎるように思う。
それは、ほとんどの非喫煙者は不快だという態度を表明せずに我慢してしまうからだ。
だから、わたしはあえて強く非難する。

2016年10月12日水曜日

アウトサイダー(ウィルソン)

アウトサイダーとは、事物を見とおすことのできる孤独者なのだ。それは不健全で神経病的な人間にすぎぬとする反対論に対して、ウェルズの主人公は答える――「盲人の国では片目の人間が王である」要するに、病におかされていることを自覚しない文明にあって、自分が病人であることを承知しているただひとりの人間がアウトサイダーなのだというのが、彼の主張である。本書でのちに問題とするアウトサイダーのなかにはこれをさらに推し進めて、病にかかっているのは人間性そのものであり、この不快な事実を正視する人がアウトサイダーであるとさえ断言するものがある。

自由とは、他の何物にもまして重い荷を背負うことであり、すべての人間に、自分でものを考え、善悪の問題を解決したうえで、その解決にのっとって行動せよ、国家や社会や家庭のために生きるのではなく、真理一途の人生を送れと呼びかけることなのだ。しかし、人間に対するもっと思いやりのある態度とは、人間を虫けらと考えることではなかろうか。永遠なる人生などといったところで、この種の人々には、とんでもない迷信としか受け取られぬであろう。いつの世にも、少数ながら、みずからを裁くことによって自由の理想を実現すべく努めるものがあり、この種の人間のみが孤立の苦悩を知る。

人間は、迷妄の底に深く沈み、自分を高く買う習癖に落ちこんでいるため、自己を知ることなど思いもよらぬのである。こういう見方をすることがアウトサイダーにとってたやすいのは、世の常となっている自己欺瞞を見抜きとおす鋭さがあるからだ。男も女も、すべての人間は、この自己欺瞞を通じて感情どおりにすべてを解釈する。それを見抜いた場合には、世の男女に対するスイフト流の軽蔑に落ちこむのが普通であり・・・(後略)

ヒューマニズムとは、精神的な怠惰の別名にすぎない。つまり、数学や物理学の世界を相手にすることに没頭するあまり、宗教の範疇については頭を悩まそうとしない科学者や論理学者の採用する曖昧な、生半可の信条、それがヒューマニズムなのである。

アウトサイダー(ウィルソン)

2016年9月11日日曜日

神を見た犬(ブッツァーティ)

「これからは読者なんて減るだけだろうよ。どんどん減ってゆく!」スキアッシはひどい言葉を吐き続けた。「やれ文学だ、芸術だと、大仰な言葉ばかり並べやがって! だがな、きょうび芸術なんてもんは、消費の一形態にすぎない。ビーフステーキや香水や藁包みボトル入りのワインとまったく同じなのさ。世間の人々が、どんな芸術に興味を持っていると思うかい? すべてを呑み込みつつある風潮を見るがいい。じつのところ、中身はなんだと思う? 民謡に歌謡曲、流行の作詞家に作曲家……どれも月並みな商品ばかりだ。しょせん栄誉なんて、そんなもんさ! きみの書くものはすばらしい。知的で非凡な小説ばかりだ。それでも、歌の下手なアイドル歌手のはしくれにだってかないやしない。人々は実質的なものを求めているんだ。手軽でわかりやすく、即効的な快楽を与えてくれるものを。苦労する必要も、頭を使う必要もないものだ!」

マジシャン

2016年9月7日水曜日

死徴

http://adachishingo.net/index.html#shichou

――弟が死んだ。

最後の肉親を亡くしたわたし。
孤独死した弟の遺体を引き取るため、彼の部屋へ向かう。
若くして突然死した弟。
警察は現場になんら不審な点を認めなかったが、弟は奇妙な状態で倒れていた。
本を抱えて死んでいたのだ。それも、まるで読みそうにない本を。
ページとページの間からはレシートがあらわれ、暗号の存在を予感させる。
やがて解読された暗号は……

ミステリアスな短編小説。

2016年8月26日金曜日

ミニマリズム・ものを持たないということ

これは実は、ただひたすらものを減らそうというのが趣旨ではない。
  • ものひとつひとつについてよく考えるようになる
本当に必要か? なぜ必要か? 自分はどういう人生を生きたいのか? そのために本当に必要か?
  • ものにとらわれず自由になる
ものは持っていればいるほどかえって煩わされるものだ。
たとえば、壊れたり傷ついたときにイライラしたりする。メンテナンスや整理に時間を取られたりする。
人間がものをコントロールしているように見えて、実は、ものに振り回されてしまっている。

たとえば、わたしは携帯を持っていない。
わたしが書斎型の人間で、いつでもPCが使えるし、必要ないからだ。
そうすると集中しているときに煩わされることもなくなり、常に気にする必要がもはや全然ない。
完全にプライベートが確保できる。
冷蔵庫もないし、洗濯機もない。
このあたりのチョイスは人それぞれだが、わたしは遊牧民のようにいつでも気軽に移動できる状態でありたい。あとはなるべくエコでありたい。

なかには、もう本当になにもかも削ってしまうという人もいる。
たとえばどこかの民族のように床で食事もできるだろう。
けれども、心が貧しくなりそうという理由でわたしはそこまでしない。
豊かさのバランスをとること。

よく考えずにふっとものを買ってしまうと後悔することがある。大きすぎた、ものが増えてしまった、100均は質がダメだ、など。
特に100均はしょせん安物なので部屋が安っぽくなる。愛着もわかない。本当に必要なものなら、なるべくいいものを買って長く使う。

たったひとつのつまらないものに、数か月以上考えていることがある。
それは、たぶん、本当は必要ないのだろう。贅沢品は迷う。あるいは、なくても大丈夫だが便利になるもの。でも便利さは追求するときりがない。
いま、わたしたちは家事ロボットとか、メイドロボットとか、そういうものは持っていない。でも、不便だから不幸だとは思っていない。
不便さや便利さは、幸福や豊かさとは関係ないのだろう。
家電三種の神器がなかった時代の人たちだって、あるいは江戸時代の人たちだって、もしかしたらわたしたちより幸福だったかもしれない。

有名な話だが、いま、追いつけ追いこせ上へ上へとやっている国の人たちがアメリカに追いつくと、地球が4つあっても足りなくなる。
だから、消費を減らし廃棄も減らす人たちは大いに世界に貢献していることになる。

この、個人がどんどん自由になって、新しい価値観を創造していく時代にあって、もの=企業やメディアに振り回される生き方はとってもダサイとわたしは思う。
しかも、人々は実際には全然幸せではない。日本人の幸福度はとても低い。会社にこき使われて、たくさん働いて……
経済至上主義・拝金主義の弊害として、環境問題や精神疾患や過労死・自殺などがある。
でも、金とものを追求して、それで最終的にどうなるのか? どうなりたいのか? というビジョンがここにはごっそり欠けている。
ミニマリストは人生を考える。
どうしたいのか? どうなりたいのか?

たとえばわたしなら、空を眺めているだけで嬉しくなれる。雲は美しいし、ひなたぼっこをしているだけで幸せだ。ぶらっと図書館へ行ってみたり、自然のなかで本を読んだりするのもいい。
ものなんかいらないから、こういう人生のほうがいい。
たくさん稼ぐ必要がないので、ぎりぎりのところで生活すればよく、いろんなことを考えたり読書したり執筆したりできる。もしそうしたければ市民活動とかボランティアとかもできる。
もともと希死念慮のあるわたしは、死ぬときは死ねばいい。と思っている。
人間は、本当は、自分の生死さえコントロールできない。

自分の人生と生活のビジョンを持つことができれば、それに即して必要・不要を判断できるようになる。そうしてどんどん自由になれる。心が自由になる。
どう生きたいのか?
どんな人間になりたいのか?
人生の最終的な目標はなんなのか?
考える。

2016年8月13日土曜日

街・地域・技術についての雑考(おまけ:文章の陳腐化)

引っ越しばかりしていて、ここ数年のうちに5か所は移動している。
最近また引っ越しをして、いま、机もないわたしは、椅子だけあるそのうえにPCを置き床に座してこれを書いている。

そんなことはさておき。

街についての一考を徒然に思った。
新居のある地区にはY駅・T駅・G駅とあって、わたしの最寄りはT駅だ。
駅間は1.8kmくらい。T駅はちょうど中間になるので、この3駅間は自転車で簡単に移動できる。
都心にあるような駅とはむろん違うが、どの駅まわりもそれなりに発展している。
百貨店などはないが、デパートありレストランあり飲み屋ありといった規模。
この3駅、並んでいるわりには意外と雰囲気が違う。

2線が乗り入れ、都心に一番近いY駅。
駅ビルあり、外に出ると飲み屋の多い印象。例によっていくつものパチンコ屋。人も多くごみごみしている。

都心からは(ほんの数分)遠ざかるG駅。
雑居ビルに入った飲み屋、通りの広い商店街。アーケードまでついているが、人の数という意味では閑散としている。

そしてわたしの最寄りT駅。
駅を出て真っ正面が巨大な並木道。通常の車線に加えて自転車用・バス用の広い路側。駅周辺にあるのは、ちょっとしたモール、大手デパート、レストランなど。飲み屋とパチンコ屋はかなり少ない。

どの駅も生活圏だが、特にT駅の南側は住宅地としては理想的に見える。
団地のおかげで地域全体に緑が多く、トロントを思わせる巨大並木通りはこの真夏でも広い道路全体が日陰になるほど。
この地区は東西南北に計3本、大きな並木で交通量の少ない優良道路が短いながらのびていて、この3駅をつないでいる。
木々の小さなみみっちい並木ならどこでも見かけるが、この3道はそうではない。
狭い範囲ながら、自転車・歩行者・走者に親切な都市設計といえる。
こういう街は日本ではあまり見かけない。

普段から思っていたことを、引っ越し屋さんとも話した。
なにかにつけ都心に出るようなライフスタイルだと、住んでいる地域の街がすたれてしまう。
通販の多用も同じ結果を招く。
地域と関係ないどこかほかのところへお金がいくため、地域の店がみんなつぶれてしまう。
東京だけにすべてがあって、ちょっと郊外に離れると住宅しかない、という風になりかねない。いままで以上に、そうなりつつある。

技術の時代にあっては、以前は想像もされなかったような、意識的な生きる態度が必要と思う。
街や地域の問題のみならず、技術によって起きる弊害を意識的に克服する必要がある。
それには、発想や日常の行動を変えるだけで実現できることもたくさんある。

追記 9.6

わたしの住んでいるあたりは、日本全体そうだけれども特に民度が低い。
誰も彼もが路上喫煙していて、そこらじゅうポイ捨ての吸い殻だらけ。
これまでずいぶんいろんなところに住んだが、これはひどい。
都心はだいたいどこも全面禁煙だと思うけど、こういう人口ばかり無駄に多くてルールづくりがなっていない街は一番タチが悪い。
日本はダメだとつくづく思う。腐っている。いくら金があったって、人間がこれじゃあ……

余談

「書くために」書かなければ、と思って書いた。
本当は、作品の文章価値も、ブログの文章価値も同じと思う。
だから、なんにしても時間をかけて推敲し緻密に書くべきと思っている。
ブログという形式はそれに適していない。
それどころか、技術の時代では、ちょっと有名人なら誰もが出している大量の本また本、無名人でも猫も杓子も書いているウェブ文章などなど……明らかに文章の価値は陳腐化している。
練られていない文章、その場の思いつきだけの話題、という点で。
さらにまた、どんな素人でも開陳できる駄文・愚論という点で。

「印刷術の発明は、読者の数を激増して、詩人や作家を大衆に従属するものとしてしまう。以前は詩人も作家も、彼らの貴族、すなわち、精通者と学識者にしか従属しなかったのであるが」アスリノー

文章のみならず、技術と商業の名のもとに、なにもかもが陳腐化している。

2016年8月3日水曜日

火箭・赤裸の心(ボードレール)

静かな水のうえにかすかにゆれ動いているあの美しい巨船、のどやかにしかも郷愁を抱くかに見えるあのたくましい船舶は、無言の言葉で我々にこう告げているのではあるまいか、「いつわたしたちは、幸福へ向かって出発するのか」と。

多少とも歪んでいないものは感銘を与えないように見える。その結果、規則はずれ、すなわち、思いがけないこと、虚を突くこと、びっくりさせることが、美の本質的な一要素であり、また特徴である、ということになる。

わたしは「美」の、自分の「美」の定義を発見した。(中略)
不幸という感じを持つことが必要なのである。わたしとて、「歓喜」と「美」とは結合し得ないと説く者ではないが、ただ、「歓喜」は「美」の最も卑俗な装飾にすぎないと断言する。これに反して、「憂愁」は「美」のいわばろうたけたる伴侶であり、およそ「不幸」の存在しない「美」というものがわたしには全然考えられないくらいである。

なにゆえに民主主義者が猫を好まないかは、察するに難くない。猫は美しい。そして奢侈、清潔、逸楽などを連想させる。

「進歩」思想よりも馬鹿げたものがあろうか、というのも人間は、日ごとの事実によって証明されているように、常に人間に似ているし人間と等しいからである。つまり、常に野蛮状態にあるからである。文明社会の日ごとの衝突や軋轢と比較するとき、森や野原の危険のごときはよくよく何物であろう。人間が街頭で自分のだましおおせた相手を抱きしめようと、人知れぬ森のなかで餌食を突き刺そうと、結局それは万代不易の人間、すなわち、もっとも完全な肉食獣ではないのか。

人間、すなわち各人は、道理にかなった階級制度が確立することは苦にするが、世をあげて低下することは一向苦にせぬほど、きわめて自然的に堕落している。

さりながら世界の破滅、あるいは世界の進歩(破滅でも進歩でも名称はどちらでも構わぬ)が、はっきりとあらわれるのは、別段、政治上の制度によってではない。それは人心の低下によってあらわれるであろう。

火箭

***

人類進歩を信ずるのは怠け者の学説だ。
(中略)個々の人が、自分の仕事をするのに隣人たちをあてにすることだ。
進歩(真の進歩、すなわち精神上の進歩)は、ただただ、個人のなかにしか、また個人自身によってしか、ありえない。
しかるに世界は、共同でなければ、徒党を組まなければ、ものを考えることのできない輩によって形成されている。

広告を見ると激しい嘔吐をもよおす。

真の文明の理論。
真の文明は、ガスのなかにも、蒸気のなかにも、回転テーブルのなかにもない。真の文明は原罪の痕跡の滅却にある。
水草を追う民、遊牧の民、狩猟の民、農耕の民、さては食人族さえも、すべて、その精力により、その個人としての品位によって、われら西欧人に優っているかもしれない。

商業は悪魔的だ、なぜかと申せば商業は、もっとも卑賤なそしてもっとも下劣なエゴイズムの一形式だからである。

世界はただただ誤解によって動いているにすぎない。

あらゆる観念は、それ自体によって、ひとりの人間と同じように、不滅の生命を授けられている。
創造された一切の形式は、人間が創造したものさえ、永劫不滅である。なぜかと申せば形式は物質から独立しているからであり、かつ、形式を構成しているものは分子ではないからである。

進歩の法則が存在するためには、各人がその法則を創造しようと望まなければなるまい。つまり、すべての個人が進歩しようと専念するとき、そのときこそ、はじめて、人類は進歩するであろう。

赤裸の心

2016年7月11日月曜日

デモクラシーからオクロクラシーへ(神武庸四郎)

社会的な意識や社会的つながりの点ではきわめて幼児的な「個人」のありかたを現在の社会における典型的な現象と考え、そうした個人を「孤人」と名づけた。(中略)ここでは日本語を用いてその「社会」を「離散社会」とよんでおこう。
(中略)
「孤人」のになうオクロクラシーは形式的・機能的観点からすると多数決による「多数派」獲得ゲームと見なされるようになる。「少数派」の人々がいかに社会的理念や社会的連帯を説いたところで、結局は徒労に終わる。むしろ、「孤人」の集合としての「離散社会」のもとではいわゆる「無知の無知」状況に加速されて人間の知性の成立基盤は人間自身によって掘り崩される。
(中略)
「孤人」ならぬ個人としての自覚を具えた人間、社会のありかたに批判的な人間、社会的イデオロギーのオルタナティーブ――「独裁」に対する「民主」、「不正」に対する「正義」、「通常科学」に対する「異常科学」、「強者」ではなく「弱者」を支持する立場、グローバルに対するローカルの立場等々――を追求する人間、要するに「あまりに人間的な」人間たちこそが「少数派」を形成しているのである。しかも、すでに指摘したように、オクロクラシーは人間が考案した最も有効な「多数派」形成手段であるから、それは論理的には人間社会からの人間の排除を、社会の「脱人間化」を、その意味で社会の機械化を究極にいたるまで推進するかもしれない。
(中略)
デモクラシーの脱デモクラシー化(オクロクラシー化)を推進するのはデモクラシーの産み出した「多数派」であって、その「多数派」こそはデモクラシーの理念を自覚することも、またそれをめざす運動に取り組むこともなく、もっぱらデモクラシーの形式的機能をみずからの利害にそくして利用する存在にすぎないからである。(中略)このように一般化された無責任システムのもとでは、みずからの社会をメタ・レベルで観察する視点は、失われないまでも前面に出てくる可能性がないので、理念やそれにそくした運動は存立しえない。「無知の無知」――いわゆる「民意」の堕落形態――がはびこるのみであろう。そこに成立するのは「多数派」の「自己満足」である。「多数派」は外生的に与えられた欲求充足のかたちに自分たちを適応させるだけで、あくまで受動的に「自己満足」という「下限」を見極める「行動」しかとらない。したがって、彼らは「少数派」の能動的な行動に対して「彼らの行動は自己満足にすぎない」と評価することによってみずからの「自己満足」を実現するだけである。

デモクラシーからオクロクラシーへ

2016年6月16日木曜日

壁の向こう側 ~参院選へ向けて

参院選(2016)へ向けて。

壁の向こう側

格差社会をテーマにした近未来小説。
企画の段階で内容が変更になったため、お蔵入りしたもの。
無料でお読みいただけます。

2016年6月14日火曜日

臓器移植 我、せずされず(池田清彦)

臓器移植 我、せずされず

いくつかのポイント。

死はプロセスであって、「この時点で死です」と科学的に定義することはできない。
一般にいわれている死というのは社会的な「みなし」である。

市場主義経済の観点から見たとしても、自分の肉体は労働などで得たものではないので、所有したりされたりすることはできない。
脳死か心臓死かという死の自己決定権があるわけではなく、身体の管理権があるのみ。

コントロール(管理)に対する問題。
科学や国家などの「好コントロール装置」は大自然に引き続いて、身体を、個人を、遺伝子を、管理下に置きかねない。

***

所有の概念の問題は、ひろげると自然、地球、土地にまで及ぶ。
たとえば土地の個人所有はおかしいと思っている。(国境も同じ)
所有ではなく共有と考えたほうが実態に近い。(すべての動植物と)
自分のものなどない、すべては借りものにすぎないと考えるなら、エゴはずいぶん変わってくる気もする。

自分の身体を自分の所有としない考え(つまり、命を与えられた、生かされている、ということ)は、つきつめると神とか宇宙の意思にたどりつきそうだが…

この本の論旨では自殺や尊厳死は否定されるが、心情的には大人の自殺は擁護したい。(子供の自殺は論外)

2016年6月7日火曜日

世界犯罪史(ウィルソン)

ラヴクラフトは現代文明の流れ全体に腐敗要素があり、このために自分のような人間はアウトサイダーや反抗者の立場に追い込まれると考えた。
この認識を最初に強調したのは二世紀以上も前の人、フランスの哲学者ジャン=ジャック・ルソーだった。(中略)
ルソーによれば文明はまがり角を間違えた。その価値もすべて間違い。尺度が成功にあるため、成功が成功を生み、間違いが積み重なるだけ。人類は種族単位で小さく静かな田園社会に住むケースがもっとも幸福。都市は醜悪以外のなにものでもない。
(中略)
人間は宇宙との「調子がはずれ」、「稼いで消費する」浅ましい世界の罠にはまっている。この不平は産業がヨーロッパに広まるにつれ明確な形を帯びはじめる。「美への飢え」だ。ロマン派の詩人によれば、美は必須ビタミンで、これが欠乏すれば魂はひからびる。英国の文学者ラスキンは詩人イエーツの父親にこう語っている。「大英博物館に通っているが、人々の顔が日々醜くなるのを感ずる」。イエーツ本人もこう書いている。「不格好な事物の悪は、語りつくせないほどにひどい悪である」。唯美主義者が唱える「美の宗教」は嘲笑の的とされて久しいが、その嘲笑は的外れと断ぜざるをえない。美を語ることは「なにか雲のうえの退屈なおしゃべり」とは根源的に異なる。それは「美の欠乏は、カルシウム不足や放射能への暴露と同様、ついには悲惨な結果をもたらす」ことの本能的な認識にほかならない。美の欠乏は意思の立ち枯れと生命力の衰弱を招く。

世界犯罪史(ウィルソン)

2016年6月6日月曜日

「しょうがない」はきりがない

いつも思うことがある。

「しょうがない」はきりがない。
添加物? しょうがないよ、そのくらい、死にゃしないって。
社会問題? しょうがないよ、そういう世のなかじゃん。
戦争? しょうがない、命令だから行くか。

しょうがないは、いいだすと、きりがない。
しょうがないっていわない人たちが、革命を起こした。
原始人たちがしょうがないっていってたら、洞窟生活のままだった。
日常生活でも同じこと。

だから、正しくないと思うことは、しょうがないっていいたくないんだよ。

***

過去に書いたもの。
たぶん、賃貸の件でごちゃごちゃやっていたとき。
でも、結局は足もとビジネスなので妥協せざるをえない。
貧困ビジネスとかいろいろあるけど、「足もとビジネス」という言葉もぜひ提唱したい。
インフラなどを取って、ユーザーの足もとを見ることができる商売のこと。

2016年5月24日火曜日

賃貸物件さがしと管理会社の仕組み ~仲介専門不動産会社

実際に担当者から聞いた賃貸の知識をメモしておこう。

  • 仲介専門不動産会社を使うといいと思う(個人的な意見)

理由
賃貸というのは、大家⇔管理会社⇔不動産屋という構図になっている。
実際には管理会社がいろいろな条件(保証会社はここを使え、これを払え、あれを払え、など)を決めていることが多い。
管理業もしている(同系列の管理会社がある)不動産屋に行くと、結局は自社の管理物件ばかり勧められる。(そのほうが儲かるため)
でもこれだと中立性が低く、ユーザーの味方とはとてもいえない。
昔実際にあったことだけど、他社の物件を提案すると、「そこは審査がきびしいですよ」とかいろいろいって結局は自社の物件に誘導される。

仲介専門(管理業をしていない)の不動産屋に行くと、「この物件(の管理会社)はボッたくってきますよ」とか教えてくれる。
まれな例とは思うけど、なかには、安く入居させておいて、退去時にいちゃもんをつけてん十万の修繕費を取るような業者もいるらしい…
「信販系(カード)の保証会社が使えるところないですか」とか、「保証人のみでOKのところありますか」とか、そういうさがし方もしてくれる。
管理業をしている不動産屋でこれをすると、「うちはこういうルールなんです」と契約方法・条件の選択肢がない。
「消火器買ってください」とか、「24時間なんとかは必須です」とか、「除菌消臭いくら」などなど…わけのわからない独占禁止法違反を強いられることも多い。
仲介専門を使うと、そうでないところを選んでさがすことができる。
(個人的な思いとしては、そういう不透明なお金がかかると計算がややこしくなって、家賃に足して割ったときに結局安いのか高いのかわからなくなってしまう)

仲介専門のデメリットは、自社の管理物件を持っていないため、仮押さえしておいてもらうとか、遠方から顔をあわせずに契約してしまうとか、そういうことができない。

それでも比較的ユーザー側に近い業務形態なのではないかと思う。

最後に、無関係ながらよさげなサイトの紹介。

ウチコミ!

大家さんに直接問い合わせができる。仲介業でないため、仲介手数料もなし。

以下、蛇足。

きちんとした業者にお金を支払いたいという思いが強い。
ユーザーの意識が低いと、ユーザーのことを考えない業者にお金が流れ、いつまでたっても淘汰も改善もされない。また、本当に誠実ないい企業にお金がいかない。
これはどの業界でも同じことで、食品も裏を見て買っている。
健康のためというか、変なものをいれるような業者にお金を支払いたくない。
個人が変えていけることはじつはたくさんある…と思う。

2016年5月12日木曜日

世界の99%を貧困にする経済(スティグリッツ)

世界の99%を貧困にする経済

勉強ノート。

アメリカは先進国で一番貧富の差が激しいわけだが、市場はほうっておけばうまくいくという考えは間違っている。
長期的に持続可能な形態になっていないため、定期的に不況や金融危機が起こる。
市場とは政府が規制してはじめて効率的に機能する。
レントシーキング。(たいした生産性を持たない、超過利潤。例:政府から落ちてくる補助金で儲けるなど)
上記レントや金融・株式への課税率が低いため、給与所得よりも大部分の収入がそこを源にしている富裕層の税率は労働者より低い結果に。
統計や研究から、累進課税率の適正値は最高70%
大衆の認識が操作される。政治やメディアをつかって、富裕層に都合のいいように。
金満家が政治家を当選させ、政治家が各部署の人材を任命する。司法や法律は彼らのためにねじ曲げられる。
緊縮財政は効果がない。富裕層に課税し、歳出を増やし、経済活動を促進すること。
トリクルダウン(富裕層が儲ければ労働者層にも行き渡り経済活性化する)はない。トリクルアップ効果ならある。

以上、うろ覚え…

要するに、問題は政治にある。というのがこの本の趣旨。
アメリカは民主主義国家としては失敗しつつあるのに、日本はそれを真似よう真似ようとしている。

起業家など、成功者はひとりで成功したわけではない。無償の過去の知的・技術的遺産、法整備、インフラ、労働力などに依拠している。成功者が収益を過大にとっていいという理屈はやはり成り立たない。科学者や社会貢献の高い人はむしろ儲けていない…
という持論はこの本にも書いてある。

2016年5月5日木曜日

平等社会(ウィルキンソン / ピケット)



格差「そのもの」が富裕層も含めて社会全体に害であるという研究結果。
たくさんの信頼できるデータに基づいている。

不平等・不公平・格差が大きいほど以下の項目が悪化する。

  • 他者への信頼感
  • 精神疾患(薬物・アルコールを含む)
  • 平均寿命
  • 乳幼児死亡率
  • 肥満
  • 子供の学力
  • 十代の妊娠
  • 殺人
  • 収監率
  • 社会移動(社会的流動性)(貧困階級から脱出できるか、など)

ポイントは、貧困層が全体の平均を下げているわけではないということ。
富裕層も同じく病み寿命が縮まる。
比較的貧しい国でも格差が少なければ病は少なく寿命は長い。この逆もまたしかり。医療費の支出額には関係がない。
よく誤解されがちだが、貧困層救済のためではなく、社会全体のために公平性が重要ということ。

不平等な社会では、社会的自我(他者にどう評価されているか)が脅かされるため、不安やストレスが高まり、見栄や他者を差別する感情が育まれる。
その国が貧しいかどうかよりも、相対的に周囲と格差があるかどうかが問題。
格差がコミュニティや地域を分断する。
また、経済的な階級をまたがって交際することはまずない。友情の問題。
平等は自由や博愛の前提であって、平等がなければ後者ふたつも成立しない。

格差があると「思いこみ」によって能力が低下する。
なにも知らせずにテストをすると黒人や低いカーストの子も普通の成績をだすが、白人や高いカーストの子と比較すると知らせると成績が落ちる。
この実験結果は成人も同じ。(例としては、企業の序列のなかでは平社員が実力を発揮できていない可能性がある。女性も同じ)

ある程度貧しい国でも幸福度は先進国と変わらない。
それどころか、先進国にとって、もはや経済成長は豊かさをもたらさない。
自分が本当に豊かかどうかではなく、他者との比較だけが問題になるため。
消費行動は本当にモノがほしいからではなく、社会的階級意識(つまり見栄)のためにされている。(流行に遅れていないかどうか、ダサく見られないかどうか)
格差を減らし見栄をはらないでよくすることが環境保護ともかかわっている。
また、技術革新で炭素排出量を減らすという発想もあまり意味がない。
LEDの電気代、燃費のいい車などで浮いたお金で別の大量消費をするから。
ほどほどの豊かさと、持続可能な炭素排出量を両立できているのはキューバのみ。

などなど、ほかにもいいことがたくさん書かれてある。

勘違いが横行しているように思う。
根本原因に当たらず、表面化した個々の問題(犯罪・メンタルヘルスなど)に当たればいいのだとか。
優れた人や成功者は劣った人よりも生活の質が違って当然なのだとか。(例外もあるとはいえ、能力的な優劣は社会的要因に根ざしている。向上心の高い人間になるかどうかは家庭環境で決まってきたりする。社会的な成功は大部分教育で決まる)
金持ちは成功者なのだから偉いというのも間違っていて、彼らはとんでもない害を社会全体に及ぼしている。(イラク戦争、リーマンショックの例など)
日本でも企業の権益のために戦争や兵器輸出や原発輸出をうんぬんしている。

この本ではないが、うつの原因は不平等だという研究結果もある。
遺伝子はそんなすぐには変わらないので、近年になって急増している精神疾患の原因とするには整合しない。
人間は本来的に平等を愛していて、実験では公平にシェアしようとする傾向が強い。
人類史の90%を占める原始社会は弱肉強食ではなく、狩猟採集した獲物を老人や病人と分かちあっていた。これはいま現在の狩猟採集部族なども同じ。
このような社会では、私利私欲に走ろうとする者は閉め出される。

記憶力が低下の一途をたどっているため(格差のせい!?)、自分自身の勉強ノートとして書いた。

2016年5月4日水曜日

人口減少社会という希望(広井良典)

人口減少社会という希望

仕事の関係で社会・経済の本を読んでいて、わかったこと。
社会・経済の本は、普段から考えていたことを代弁してくれる。

この本では、

  • 日本は人口が減ったほうがよくなる
  • 世界実現(自己実現ではなく、よりよい世界にしたいということ)
  • 森など自然のパワー
  • 自動車が闊歩する街づくりのおかしさ
  • 地球倫理というキーワード
  • 現代生命論(生命の意志のようなもの・エントロピーに逆らう力)
  • スピリチュアルな思想・世界観の必要性
  • 宇宙がいかに生命のために絶妙にできているか(偶然ではない)
  • 実在と認識は表裏一体という観念論(宇宙で人間が重要な役割をはたしている)

などなどのことが書かれてある。

なにかをするには、その行為を支える思想や世界観が必要と思う。
そうでないと、常に場当たり的で当てずっぽうということになる。
なんのために生きるのか? なんのための社会か? なんのための豊かさか?
などを再確認する思想・倫理(よく生きるということ)がベースになければ、この社会はただ混沌ということになる。

2016年4月24日日曜日

さがしもの名人のなくしたもの

http://adachishingo.net/index.html#sagashimono

灰色の帝都。
まったく同じビル群に、交錯するアスファルト。
電車にゆられての長時間の通勤。
人々は12桁の番号で呼ばれ、うつむきがちに生活している。

貧民街の集合住宅には臣民番号985034196520の名で呼ばれる男が住んでいる。
さがしもの名人である。

――迷子の子猫を見つけるくらい朝飯前だし、うっかり落としたコンタクトレンズだってお手のものである。小さなさがしものばかりではない。生き別れた家族、どうしても思いだせない単語、老人が若かったころになくした大切ななにか(それがなにかさえ忘れてしまっている)、なんでもござれだ――

ある日、彼のもとに宮廷からの密使がおとずれ……

ファンタジックな短編小説。

2016年4月14日木曜日

保証会社と賃貸価格表示の問題

たまには、私事を…

賃貸。
保証会社はおかしい。
以下、その理由。

1. 生殺与奪の権をにぎっている

たとえば、独居老人はいつ亡くなるかわからない。
遺品の始末とか金がかかって面倒だ、審査落とそう。
利益に汲々とするあまり公務員のような人しか通さないといううわさの業者も。
こうして生活の基盤がいち営利業者によって否定されうる。
住む場所がなくなってしまう事情は失業者・貧乏人なども同じ。
「生きる資格」を審査しているのと大差ない。

2. 保証サービスの受益者は管理会社・大家であるにもかかわらず入居者が支払わされる

お金を払っても入居者にはたいしていいことがない。
むしろ、法で規制されていないので、サラ金の取り立て以上のことができる。
この理不尽の改善案。
a. 保険のように、失業したときに補填してくれるサービスにする
b. 滞納などが起こらなかったときに、かけておいたぶん戻ってくるようにする
c. 保証サービスの受益者である管理会社もしくは大家が支払う

保証会社に限らず、日本は住のルールがおかしい。

***

価格表示のおかしさ。

例:
家賃50,000(共益費込み) + 保証会社50,000(2年) + 保険20,000(2年) + クリーニング30,000

が必須の内訳にするなら、

家賃54,000(50,000 * 24 + 50,000 + 20,000 + 30,000 / 24)

と表示しなければおかしい。
理由。
ほかの物件と比較できないうえ、実質いくらかユーザーが把握できないから。
総額の内側で、業者間でどういうお金の動きがあるのかは業者の問題だし業者の決めること。
どの業者を使うか、ユーザーに選択権がないのならなおさら。
一見安く見せかける詐欺に近い。

***

最後に、いくつかまともなサービスの紹介。

めぐみ企画(北海道)

余計な初期費用がかからない。審査がない。家具つき。すばらしすぎる。

ウチコミ!(関東)

大家さんと直接話せるサイト。仲介手数料もなし。
条件がいいかどうかは大家さんによる。

いつかまともな賃貸営業がスタンダードになる日ってくるのだろうか。

2016年4月1日金曜日

スターシーカーズ(ウィルソン)

われわれが本当に欲しているのは、宇宙のはてはどこにあるのか? 時間はいつはじまったのか? こうした問いに対するなんらかの手がかりである。だが、ビッグ・バン理論はそれに答えてはくれない。この意味で、ビッグ・バン理論は、宇宙は象の背に支えられ、象は牛の背に支えられ、牛は豚の背に支えられ……という古代ヒンドゥー教の信仰と少しも変わらない。
ここではっきりと認識しておかねばならないことは、科学それ自体はこうした問いになにも答えられないということである。
(中略)
科学が問題を探求する唯一の道でないことは、常識でわかる。聖アウグスティヌスはいっている。「時間とはなにか? 面と向かってそう問われなければ、わたしには答えがわかっている」頭で考えてもそれはわからない。直観でわかるものだ。同じことは、生命という概念にもあてはまる。
(中略)
理解するということは、すべて、このように自己の内面へ下降していくことに依存している。
(中略)
そしてまた、自己の内面に下降するこの能力こそ、進化の主要な目的のひとつであることも明らかである。
(中略)
カントは、空間と時間が、じつは外部には存在せず、赤や紫のように、われわれの心がそれらを生みだしたのだ、と大胆な仮説をたてた。もし、これが正しければ、われわれはなぜ空間のはてや時間の起点を把握できないかが、おのずと明瞭になるだろう。というのは、答えはわれわれの心の内部にあることになるからである。空間や時間を理解するには、心の深層へと下降していく以外に方法はないだろう。
(中略)
わたしがいわんとしているのは、宇宙を見あげ、「それはどこで終わるのか? すべてはなにを意味するのか?」と問うとき、その疑問は思ったほど単純ではない、ということなのである。その疑問には、わたしとは何者かという前提が含まれているからだ。

スターシーカーズ(ウィルソン)

2016年3月24日木曜日

日本文学(?)と感傷主義

まともな出版社をさがしていて見つけたのだけれど。

http://shinjindo.jp/contents/maruyama_award.html
(少しスクロールダウンした、「そもそも文学という行為は…」から)

この人のいっていることは100%正しい。
明治大正のころでさえ、まともな書き手はほとんどいなかった。特に大御所ほどだめ。
精神性が非常に低く、文学でさえない、土着のなにか。
日本はなんでもそうだけど、ただ形式を真似ただけ。(特に詩がそう。日本語そのものが非音楽的で美しくないので、あの形式でやる意味がない)
当時から質的にからっぽで、いまもからっぽのまま。
ろくな書き手がいない。
ずっとこの流れできているので、文学としていいか悪いかを判断する目もなく、専門家のみならず読者の質がぞっとするほど低い。
いい作品を読んでいなければいい目だって育つわけもない。
このことをわかっている人は本当に少ない。

日本および日本人は感傷主義だと思っていて、基本的にめそめそしている。
ぼくはこうなんだ、いや、ああなんだ。ぼくは、ぼくは。
悲しかった、嬉しかった、うんぬん。
右は右で、父祖は正しかったんだと「思いたい」。
まったく非合理な慣習を「信じたい」。

個とか我をこえたもっと大きなものがある。
神、宗教、形而上、美、精神、世界、宇宙…
そこを問題にすればいいのに、まさにそここそからっぽときている。

2016年3月9日水曜日

オカルト(ウィルソン)

サイバネティックス学者の観点からすると、宇宙を情報と情報処理という形で考察することが可能であると指摘した。(中略)フォスター博士はさらに続けてこう述べた。「物質の本質は、原子が宇宙のアルファベットであり、化合物は単語であり、DNAはどちらかというと長い文章もしくはまるまる一冊の本であり、その本は象とかキリンとか、さらには人間とかいったものを表現しようとしているのである、ということは明白であるに違いない」
(中略)
「波」を宇宙の基礎語彙と考えることができるならば、生命を――いや、すべての物質さえも――なんらかの仕方でサイバネティックスふうにプログラムされた波によるものと考えることができるかのようだ。
(中略)
博士が問題にしているのは、プログラミングをしているのはなにものかということについての理論よりも、自然の全般にわたってプログラミングがあるという事実なのである。彼が問題にしているのは、いかにして情報がDNAに伝えられるかという疑問であるが、そこで「宇宙線」がもっともな仮定として登場してくる。
(中略)
彼は、さらに続けて、すべてが精神と意味であるからには、精神と肉体の二元論はいつわりであり、わたしたちが「肉体は物質である」と想定するのは、肉体の振動率が速すぎてわたしたちの精神には理解することも分析することもできないからであると論じている。実際、人体は自然のなかにある意味を直接的に、調和的な共振によって理解しているのである。「そして、いったいどうして人体は、人体すべてが精神でなかったならば、そのとてつもない化学的な複雑さを制御することができるのでしょうか」

オカルト(ウィルソン)

2016年2月29日月曜日

偽物の時代

現代日本のことを「偽物の時代」って勝手に呼んでいます。
香料、着色料、自分で歌えない歌手、フォトショップされた雑誌、全然見識の高くない有識者たち、イメージだけの嘘広告、ユーザーをだます企業、などなど…
よりよい生活。

でも、この生活という言葉のなかに、思想がない。あるのは、金とモノだけです。

日本では質が問われない、という印象があります。
質という言葉は、精神とも置きかえられるかもしれません。
肩書き、モノ、数字、目に見えるものにばかり依拠していて、中身がない。
だから、住宅とか、ライフスタイルとか、海外のものをいろいろと持ってくるわりには、そこに宿っていたはずの精神がすっかり置き去りになっている。
日本人はものを空洞化するのが大好きで、なんでも形だけのものにしてしまう。冠婚葬祭、クリスマス、などなど。
こんなに精神面がからっぽの民族ってほかにあるのかと、非常に疑問ですが…
仏教が長かったわりには、その精神もほとんど生き残っていませんね…


日本人って、哲学・宗教・思想とかにうとすぎるのではないか? という思いが普段からあります。
知識として学んだかどうかではなく、そもそもほとんど考えていないのではないでしょうか。
なぜ生きるのか? 死ぬとはどういうことか? どう生きたらいいのか? とか。
だから、自己を見つめるとかもできないし、本質なんてなおさらです。


これも普段から考えていることなんですが、気高さとか、高潔さ、そういった精神的な態度がゼロだと感じます。
実利実益の前ではもちろん、そんなものは無価値なわけですが、その結果、立派な人間なんていなくなったし、怒ることも戦うこともない。
江戸っ子とか、本当の貴族とかが持っていたかもしれない、そういう精神的な価値を、金とモノとひきかえにごっそり捨ててしまいました。


(メールより)

2016年2月28日日曜日

低気圧の日

http://adachishingo.net/bib/i/?book=teikiatsu

作品を追加しました。

【収録作】
かげろう
歩く
生きづらい
低気圧の日

エッセイ、短編、散文詩。
無料でお読みいただけます。

2016年2月22日月曜日

鹿児島・桜島・海!(猫)


2015年最悪だったことは、車の運転で死にそうになったこと。同乗者を殺しそうになったこと。チンピラが追いかけてきてウィンドウを殴られたこと。
2016年最悪のことは、飛行機に乗り遅れたこと。これ以上悪いことはきっともう起こるまい。

(以下、旅行記を書こうとして断念)

***



一緒に転がっていた写真もなんとなく。
13歳オス。

2016年2月20日土曜日

エイリアンの夜明け(ウィルソン)

天文学者のデヴィッド・ダーリングの意見はこうだ。「(中略)なにが現実かを確立するうえで、意識は決定的な役割をはたしているのだ。われわれの五感に届いた時点では、どんな情報もせいぜいが実態のない混沌としたエネルギーでしかない。視覚、聴覚などどれをとっても、われわれが物理的世界に向けて投影する情報ほど首尾一貫した状態ではない。われわれが知っている宇宙は、完全に脳のなかで構築され、体験されているのであり、精神によって構築されるまで、現実は舞台のそでで待っていなくてはならないのだ」
すでに書いたように、物理学者ジョン・ホイーラーはさらにその先を行っている。光子は観察されてはじめて”実体”になるところから出発して、二重スリットの実験を遠くの恒星からの光(何百万年も前に発せられた光)でおこなってみてはと指摘する。もし観察によって波動関数が崩壊するまでは光が”蓋然性の波”であるなら、その光が観察されるまで星(生物が住んでいないとして)もまた蓋然性の波でしかないと見なさなくてはならない。
(中略)
そして量子論には不可欠のもうひとつの要素、精神がある。精神はなんらかの方法で、波を粒子として、またエネルギーを物質として凍結させるのだ。精神はエネルギー体系の一部ではなく、どこかその体系から独立し、超越した存在のようである。

エイリアンの夜明け(ウィルソン)

アトランティスの遺産(ウィルソン)

確かにグリンブルは、イルカ呼びのことは耳にしていた。シャーマンが、ある種の魔法を使って呼ぶと、イルカたちがやってきて岸にあがってくるという話だ。彼はこれを、縄を使ったインド人の手品と同種のものと考えていた。どうやるのかを訪ねてみると、それはある特定の夢をみる能力にかかっていると聞かされる。イルカ呼びがこの夢をみることができれば、その霊は身体を離れて「イルカ人たち」をおとずれ、ごちそうを食べたり、踊ったりしにクマ村にやってくるよう招くことができるというのだ。イルカたちが港につくと、夢びとの霊は急いで自分の身体に戻り、部族にこれを知らせるという……

「キシェ部族の人間にとっては、人生を生きるということは、音楽を作曲することや、絵を描くこと、あるいは詩を書くことと似ている。正しい生き方で生きた一日一日は、芸術作品にもなりえるし、あるいは大失敗となる可能性もある…… キシェの人間は、毎日をいったいどう生きるかというプロセスについて、本当に深く真剣に考えなくてはならないのだ。したがって、西洋人を動かしている力であり、成果をはかる物差しでもある「生産性の法則」というのは、アメリカ先住民にとっては理解できないものであり、たとえ「生産性のある仕事」をなにひとつしなかったとしても、まっとうにすごした一日というのは、それだけでひとつの成果なのである」(人類学者ホールからの引用)

アトランティスの遺産(ウィルソン)

2016年2月14日日曜日

親愛なるHSP/HSSに・世を憂うHSPに宛てた言葉

自分が見て感じている世界はなんか違うなあと、子供のころから思っていました。
チェックリストの適合率はHSP10割、HSS9割です。

たとえば…人のネガティブな感情とかはすぐに伝わってきて嫌ですね。
店員さんがイライラ仕事してたりするともう本当にぞっとします。
悪いものがこっちにうつって、こっちまでイライラしてしまう。
あと、わざとではなく、相手に混ざってしまいます。
明るい人と一緒にいると明るくなるし、暗い人と一緒にいると暗くなったりします。

自然からはなにかよくわからないパワーを感じられて、花の世話をすると気持ちがつうじるのがわかります。
いまは寒いのでできませんけど、よく自然のなかへ出ていってぼーっとしてエナジーをもらっています。

苦手なものは本当にたくさんあって…音が気になるので部屋探しに苦労したり。
視界がふさがれている(目の前にビルがある)のも息苦しいのでまた苦労したり。
そのほか、人ごみ、煙草、香料、カフェイン、などなど…
歳をとって鈍感になるどころか、むしろどんどん研ぎ澄まされている気がします。

争いとか競争も嫌ですね…
なんだかよくわからない理由でネットも苦手になってしまって、SNSとか基本的にやっていません。

感性、感覚、感じ方って、一番ベーシックな部分に近いものなのかもしれません。
そのうえにのっかってる、人格とか、病とか以上に。
だから、なんだあ、同じ人種がいるんじゃん、と思って、ほっとします。
こういう繊細さってとてもいいことなのでは、重要なことなのでは、と思っています。
現代ではかえってしんどいかもしれませんけど、これから社会がよりよく豊かになるためには…

***

追記 9.8 世を憂うHSPに宛てた言葉

そもそも、日本は近代化なんてしていないんだと思います。
たまたま経済的にのしあがったものだから、意識面や精神面は成長していないにもかかわらず先進国だと勘違いして思いあがっている…

まず、人権意識が低すぎます。
誰か(たとえば沖縄)に対してひどいことがされているということは、いつ自分がそうされても不思議じゃない社会に生きているということです。
でも、人のために怒ったりしない。義憤とか、公憤とか、そういうものがありません。
危機感がないと、民主主義とか平和なんて維持できないのに。

また、俗物主義がひどい。
倫理や宗教的価値観がほぼないため、金と物と娯楽のみ追求という状態です。
生活生活とばかり唱えて、理想とかより高い人生の目標を持っていないみたいです。
無思想ということですね。
欧米はキリスト教文化のせいかここまでひどくないです。アジアや他の国々も。

自分で考える力を持っておらず、長いものには巻かれろ、よらば大樹の陰、そういう世渡りばかり。
ダメなところがあまりにたくさんありすぎて、いいだしたらきりがありませんが…

このどうしようもない社会を少しでもましにするために、いったい、自分になにができるだろうか…? という思いは常にありまして…
でも、適不適があって、個人にできることには限界があるのかな…とも思ってしまいます。
たとえば、ぼくは疲れやすく体力がないのでデモとかはちょっと苦手だったりします。
市民活動のなかで、街頭に立って署名集めとか、いろいろあるんですが、それも苦手。
だから、デスクワークをボランティアしたり、ものを持たない捨てないミニマルライフをやっていたり…
マイバッグを持ち歩くとか、添加物のはいったものは買わない(そういう企業にお金を流さない)とか、そういうレベルのことはひとりでいくらでもできると思います。
でも、人間そのものの腐敗している感じ、堕落している感じ、これは太刀打ちできなくて…
心を開いて生きるようにしていて、近隣の人と挨拶する、立ち話する、電車とかでもなにかあったら話しかけるとか…
でも、人を変えることはできないんだろうな、と思います。
自分の生き方で示す、作品で示す、というくらいしか…

希望がないです、正直。
心(精神)の問題だと思うので。
制度とか、法律とかじゃなく…
せめてぼくらだけでも流されてしまわずに、お互いに励ましあっていたいですね。

2016年2月11日木曜日

知の果てへの旅(ウィルソン)

ベルクソンは数学にも強い関心を抱く無神論者としてスタートする。しかし、オーベルニュで教鞭をとりはじめると、自然に深く魅せられ、新しい世界観をはぐくむ。山や落日の美は理性では説明不可能なことを突然悟った。(中略)ものさしは空間をミリ単位で、時計は時間を秒単位で分割する。しかし、「時間とはなにか?」と問うとき、それが秒や分とはなんの関係もないことがわかる。それは「人の内部」で起きる事柄で、切れ目のない流れである。この「流れる」時に照準をあわせると、人は「いままでよりも深い自己」を備えていることに気づく。日常の自分とはまったく違った自分である。このような瞬間、人生には単なる物理的動きよりはるかに深い意味があることを人は感じる。ベルクソンは「この深い意味こそ哲学が真に探求すべき対象である」と言う。コントが現実の尺度と考えた科学は「分析」により機能するが、哲学は直観から出発しなければならない。

フランス哲学展望

目は、見て面白いものがなければ、「焦点を失い」がちとなる。心も同様だ。(中略)心を放置しておくと「自己陥没」しがちとなる。(中略)
以下、比喩でこれを説明したい。わたしは退屈すると、自分の内部に「ひきこもり」がちになる。その内部を一種の洞窟と考えていただきたい。狭く長い一本の通路があり、その先は陽の光につうじている。周囲で生ずることに興奮したり関心を抱いたりすると、わたしは洞窟の入口近くにやってくる。 しかし、会話に退屈すると、通路を引き返し「奥のほう」から事態を眺める。
(中略)
洞窟の入口で陽光と色彩に魅せられて立つとき、わたしは判断を停止する。もっぱら「吸収」するのみだ。(中略)一方、洞窟の奥のねぐらで深夜に目ざめると、想像上の家具にかこまれ物思いにふけることになる。これはかなり危険な状態だ。もし気苦労やうっとうしい事情があると気分に負のはずみがつき、ついにはパニックに襲われたり自殺願望にとりつかれたりする。すなわち、自分の主観性――意識が自己陥没したがる傾向――の犠牲となる。(中略)
これこそハイデガーが言う「存在の忘却」――現実世界の大きさと複雑さを忘れ、自分が所有している写真をその代替物として受け入れる傾向――の内容である。
(中略)
ここに人間のもっとも根源的な問題のひとつがある。(中略)いったん通路の途中の気に入りの場所に身をすえると、自分はまだ片足を夢の世界に残していること、外の「現実の世界」からはまだはるかに遠い距離にいることがよくわからない。(中略)ほぼ永続的な「価値低下」の暗い状態に沈みこむ。これが本来の客観的意識ではないということさえ自覚していない。
読者にはぜひわかってほしいが、これは病理学上の症状ではない。わたしたち大部分のいわゆる「日常意識」の問題である。ところで、日常意識とは「価値が低下した」意識にほかならない。詩人や神秘家はこのことにとっくに気づいている。

フッサールと進化

2016年2月7日日曜日

シャーロック・ホームズ(ドイル)

「これはなにを意味するんだ、ワトスン?」ホームズはその供述書をしたにおいて、おごそかにいった。「この苦難と暴行と不安の循環はなんの役をはたすのだ? なにかの目的がなければならない。さもなくばこの世は偶然によって支配されることになる。そんなことは考えられない。ではなんの目的があるというのか? これは永遠の問題としてのこされる。人知のおよぶところではない」

ボール箱

「ねえワトソン、考えてもみたまえ。野卑で肉欲的で世俗的な人間がみんな、用もないのに生きながらえることになる。崇高な人間は、さっさとより高いところへ行くのをいとわないからだ。そうなれば世のなかは生存の価値のないものばかりになる。それではこの世はまるで汚水だめと選ぶところがないではないか!」

這う男

2016年2月6日土曜日

シルヴィーとブルーノ(キャロル)

「神さまはうさぎを愛してらっしゃるかしら?」
「そうさ」とぼくはいった。「むろん愛しておられる。神さまはあらゆる生き物を愛しておられる。罪ぶかい人間でさえね。罪など犯せない動物はなおさらだよ」
「『罪』ってなんのことかしら」シルヴィーはいった。しかしぼくはあえて説明しなかった。
「さあ、お嬢ちゃん」とぼくは彼女をうながした。「かわいそうなうさぎにさよならをいって、木いちごをさがしにいこうね」
「さようなら、かわいそうなうさぎさん!」シルヴィーは素直にくりかえしたが、立ち去ろうとするとき肩ごしにそれを眺めやった。ここで、いっぺんに彼女の自制心がくずれた。ぼくの手をふりほどくと、息絶えたうさぎの倒れているところにかけ戻り、幼い子供とは思えないほどに嘆き悲しんで、そのかたわらにうつ伏した。
「ああ、かわいそう、かわいそう!」彼女は泣きじゃくりながら何度もくりかえした。「あなたの生涯を美しくとの神さまの御心だったのに」

シルヴィーとブルーノ(キャロル)

2016年1月25日月曜日

空疎さ、時代の虚無

 実家のある地元というのはどうしようもない田舎で、どこともつながっていない。街ともつながっていないし、駅ともつながっていない。陸の孤島だ。歩いても歩いてもどこにも到達しないし、あるのは、嘘みたいな住宅地と、田んぼだけだ。唯一、太い川と細い川と二本流れていて、その土手はそんなに悪くもないが、しょせんは田舎の景色なのですぐに飽きてしまう。
 高度成長期に無理やりつくった、いわゆるニュータウン。住民の誰ひとりとして地域で活動しないし、ろくな商店もないので、日用品ひとつのために隣町までのこのこでかけていく。都心まで二時間かけて通勤し、犬小屋みたいに、ただ帰って寝るだけの土地。そんなライフスタイル。空疎だ。時代を象徴する虚無を感じて仕方ない。内実をともなわない本当の貧しさ。浅はかさ。

エッセイ『歩く』より抜粋

***

上記一部のみ、加筆修正しました。

このことは昔からどこかで言いたかった。
ずっと以前、「虚無の世代」という言葉をいった知人がいた。
うわべの豊かさばかりで、生活そのもののなかに、なにもない感じ。
地域の活動とか、人とのつながりが、なにもない感じ。
街でもなく、自然でもない、無機質な原風景。
虚無の世代は、こういうところから生まれてくるのかもしれない。

街ひとつ満足につくれない、中央集権が悪いとは思いつつ、あまりに愚かすぎる。
ラッシュ、人口稠密、ギスギス、みんなここから起こっている。

2016年1月24日日曜日

エセー(モンテーニュ)

けれども、体のしくみというのは、ふつうはこれと反対であって、もっともいい状態とは、なにも匂いがしないときなのだ。もっとも澄んだ息をかいだときの気持ちよさにしても、健康な子供の息のように、いかなる匂いも感じられない場合に比べるならば、 優れたところなど少しもない。(中略)昔の詩人たちのいう、「いい匂いは、くさい匂い」という警句にしても、ここからきている。
(中略)
ポストゥムスよ、いつもいい匂いをさせている人は、つーんと匂っているにすぎないのだ。(マルティアリス『エピグラム』)

とくにわれわれのように、自分だけにしか見えない私生活をおくる人間は、内面にしっかりした規範をつくっておいて、われわれの行動の試金石としなければいけないし、その規範にのっとって、ときには自分を優しくなで、ときには懲らしめる必要がある。わたしは、心のなかにわが法律と法廷をもっていて、自分を裁くのだし、ほかのどこよりもここに出向いていく。自分の行為を制限するときは、他人にあわせるものの、それを広げるときは、自分だけにしたがう。あなたが臆病で残酷なのか、あるいは忠実で献身的なのかを知っているのは、あなたしかいない。ほかの人たちに、あなたは見えない。あやふやな推測によって、あなたのことをおしはかるだけで、あなたの本性ではなく、技巧を見ているにすぎないのだ。
(中略)
心の内面までも、しっかりと秩序を保てるような生活は、じつに希少なものといえる。田舎芝居に加わって、舞台ではりっぱな人間を演じることなら、だれにでもできる。でも重要なのは、すべてが許され、すべてが隠されている心のうちで、つまりは、内面において規律正しいことなのだ。その次の段階、それは家のなかでの、だれにも説明しなくてもいいようなふだんの行動のなかで、つまりは、なんの計算も技巧もいらないような場所で、規律正しいこと。だからこそビアスも、すぐれた家庭のありさまを描くにあたって、「一家の主人が、家のなかで自然にしているのが、外で、法律や人のうわさを気にしているのと同じような状態であることだ」といったに相違ない。

わたしは快楽と禁欲の双方に通じているから、はっきりいう資格がある。(中略)おろかで、いまにも崩れ落ちそうな自尊心、退屈なおしゃべり、とげとげしく、人づきあいの悪い性格、些末なことへのこだわり、そして、使い道もないのに、財産のことをばかみたいに心配することだけではなくて、老いのなかには、ねたみや、不公平さ、いじわるさなどがたくさん見つかる。
老いは、顔よりも、精神に、たくさんのしわをつけるにちがいない。年老いたからといって、すっぱいにおいや、かびくさいにおいがしないような魂など、まずめったに見つかるものではない。成長に向かうときも、減退に向かうときも、人間は全身で進んでいくのである。
(中略)
老いというものが、わが知己の面々に、毎日毎日、なんと多くの変貌をもたらしていることか。それは強力な病なのであって、ごく自然に、気がつかないうちに進行していく。老いという病気がわれわれにうつす欠陥をさけようとするならば、あるいはその進行を遅らせようとするならば、十分な努力の蓄積がなければいけないし、大いに用心してかからなければいけない。


エセー(モンテーニュ)

2016年1月23日土曜日

スラップスティック(ヴォネガット)

わたしはアメリカ人の孤独について語った。選挙に勝つために必要な話題がそれだけだということは、幸運だった。わたしの持っている話題はそれしかなかったのだ。
アメリカの歴史のもっと早い時期に、わたしがこの簡単で実用的な孤独退治の計画をひっさげて登場できなかったのは残念だ、とわたしはいった。過去のアメリカ人の有害な行き過ぎのすべては、罪悪への好みというより、むしろ孤独によって触発されたものだ、とわたしはいった。
ひとりの老人が演説のあとでわたしのところへはい寄ってきて、こういった――むかし自分は生命保険だの投資信託のだにはいったり、電気器具だの自動車などを買ったりしたが、それはそんなものが好きだったり必要だったりしたからではなくて、セールスマンが自分の身内になってくれそうな気がしたからだ、うんぬん。
「わしには身内がいないし、身内がほしいんだよ」その老人はいった。
「だれもがそうです」わたしは答えた。
老人は、酒場の人たちのなかに身内をつくろうとして、いっとき飲んだくれたことがある、とわたしに話した。
(中略)
「もし、あんたが当選したら、わしにも人工的な身内ができるそうだが――」と、その老人はいってから、間をおいた。「どれぐらいの人数だといいなさったかね?」
「一万人の兄弟姉妹です」と、わたしは答えた。「それに、十九万人のいとこ」
「そりゃまた、えらく大勢だのう」
「こんなに大きくてぶさまな国に住むにはありったけの身内が必要だと、いまさっき、わたしたちの意見は一致したばかりじゃありませんか。たとえばですよ、もしあなたがワイオミングへ行くことになったとする。そこに大勢の身内がいるとわかっていれば、心強いと思いませんか?」
彼はしばらく考えた。「うん、まあ――そりゃそうだ」あげくのはてにそういった。
「さっきの演説でもいいましたが」と、わたしはつづけた。「あなたの新しいミドル・ネームはひとつの名詞、たとえば、花か果物か木の実か野菜か豆類、でなければ鳥とか爬虫類とか魚とか、軟体動物とか、それとも宝石や鉱物や化学物質の名前と――それに一から二十までの数字をハイフンでつないだものになります」わたしは彼に現在の名前をたずねた。
「エルマー・グレンヴィル・グラッソ」と、彼はいった。
「では」と、わたしはいった。「あなたはエルマー・ウラニウム-3・グラッソということになるかもしれませんよ、たとえばね。すると、ミドル・ネームの前半分にウラニウムとついている人間は、みんなあなたのいとこになるんです」

(その後いろいろあって、主人公は上記の人工的な家族会議に出席する)

わたしは深い感銘を受けた。国家は決して自己の戦争を悲劇と認めることができないが、家族はそうできるだけでなく、そうせずにはいられないのだ。

(議題が変わる)

彼女の子供たちは、ひとりで歩けるようになるが早いか家出をして、もっと家事の上手なうちへ住みついたという。これこそ、イライザとわたしの発明のいちばん魅力的な特徴だと、わたしは思う――子供たちは、とてもたくさんの家庭と両親のなかから、自分の好きなものを選べるのだ。

スラップスティック(ヴォネガット)

2016年1月17日日曜日

七つの夜(ボルヘス)

作家あるいは人は誰でも、自分の身に起きることはすべて道具であると思わなければなりません。あらゆるものはすべて目的があって与えられているのです。この意識は芸術家の場合より強くなければならない。彼に起きることの一切は、屈辱や恥ずかしさ、不運を含め、すべて粘土や自分の芸術の材料として与えられたのです。それを利用しなければなりません。だからこそわたしはある詩のなかで、昔の英雄たちの食物、すなわち屈辱、不運、不和について語ったのです。それらが与えられたのは、わたしたちを変質させるためであり、人生の悲惨な状況から永遠のもの、もしくはそうありたいと願っているものをつくらせるためなのです。

盲目について

2016年1月15日金曜日

続審問(ボルヘス)

わたしは世間である程度の評価をうけているものを検討してみた。宇宙の痕跡が認められる唯一の整合がショーペンハウアーのものであることを、わたしはあえて主張したい。彼の説くところによれば、世界は意志のつくりだした虚構である。芸術は――常に――可視の非現実を必要とする。ほんの一例をひけば、芝居の登場人物たちがしゃべる、比喩に満ち、言葉数が多く、わざと何気なくしたせりふがそうである。われわれはすべての観念論者が認めていることを認めよう。すなわち、この世界の本質は幻影である。われわれはすべての観念論者がしなかったことをしよう。すなわち、その本質を確証する非現実をさがそう。そのとき、われわれはそれをカントの二律背反のなかに、ゼノンの弁証法のなかに見いだすだろうとわたしは信じる。
「最大の魔術師とは(ノヴァーリスが忘れがたい一文を記している)、われと自らつくりだした幻影を自然に生まれた亡霊と錯覚するほどに自分を欺きおおせた魔術師のことだ。これはわれわれにも言えることではないだろうか?」そのとおりだとわたしは思う。われわれ(われわれのうちにあって活動する不可分の神性)は世界を夢想した。われわれはそれが強靭で謎めいて可視的であり、空間において遍在し時間において永続すると夢想した。しかし、にせものであることがわかるように、われわれはその骨組みに、微細で永久的な不合理のひびをいれておいたのだ。

亀の化身たち

「この世にあって、おのれの何者なるかを公言できる人間はいない。自分がなにをするためにこの世にきたのか、自分の行為・感情・思想と照応するものが存在するのか、自分の真の名前、光の登記簿に記された不滅の名前がなんなのかを誰も知らないからである。……歴史は一冊の膨大な祈祷書であり、そこに記された文字の一点一画も全節あるいは全章と同じように価値があるが、両者の重要性は決定不能で奥深く秘されている」(『ナポレオンの魂』レオン・ブロワ)。マラルメによれば、世界は一冊の書物のために存在する。ブロワによれば、われわれは魔法の書物の節ないし単語ないし文字である。そして、この不断に連続する書物はこの世にある唯一のものである。というより、その書物が世界である。

書物崇拝について

2016年1月7日木曜日

魂と舞踏(ヴァレリー)

ソクラテス 言ってくれたまえ、なにか特効薬を、とりわけよくきく解毒剤を、きみは知ってはいまいか、あの病のなかの病、毒のなかの毒、自然というもの全体に敵対する毒液のための…?
パイドロス どんな毒液です?
ソクラテス どう名づけよう、生きることへの倦怠、とでも? ――こういう意味なのだ、どうかわかってほしい、つかの間に過ぎ去る倦怠ではない、疲労による倦怠ではない、萌芽が見えている倦怠でもないし、限界の知れている倦怠でもない。あの完璧な倦怠、あの純粋な倦怠、不運や障害が起源ではなく、あらゆる境遇のうち、じっと見つめてもこのうえなく幸福に見える境遇とも共存してしまう倦怠、――要するに、生それ自体以外にいかなる実質も持たず、生きている人間の明察のほかに第二の原因などのない倦怠のことを言っているのだ。この絶対的な倦怠は、それ自体として、生がおのれみずからを明晰に見つめるときの、まったき裸形の生にほかならない。
(中略)
ソクラテス エリュクシマコスよ、わたしはきみに訊いていたのだ、はたして治療法はあるのだろうか? と。
エリュクシマコス それほどまでに理にかなった病をなぜ治療するのです? 確かに、物事をありのままに見ることほど、それ自体としてこれ以上病的で、これ以上に自然に敵対するふるまいは、なにひとつありはしない。実際、なにひとつありません。冷徹で完璧な明察は、戦いの相手とするには不可能な毒です。

魂と舞踏(ヴァレリー)