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2015年6月26日金曜日

M・エンデが読んだ本

そう言われて、ペリチョーレは、化粧品の瓶やポマードが置いてあるテーブルに突っ伏して、からだを痙攣させながら、激しく泣いた。完璧であることしか許されないのだ。ただ完璧であること。だがそれは無理な相談だった。
それからアンクル・ピオが、静かな声で、何時間もしゃべった。作品の解剖をし、声や振りやテンポについて細部にわたって説明した。(中略)
このふたりは、だれに気に入られようとしていたのか? リマの客ではなかった。彼らなら、とっくの昔に満足していた。われわれは、この地上に生まれるまえに、信じられないほど厳しい水準の完璧さを知っていたのだ。そして、もうけっして手にすることのかなわないその美を、おぼろげに想起してから、ふたたびあの世界へ戻っていくのだ。

サン・ルイス・レイ橋(ワイルダー)

そこである日のこと、先生にたずねた。「いったい、どうやって射は放たれるのでしょうか。「私」が放つのでなければ」
「「それ」が放つのじゃ」
「その答えは何度も聞きました。では、質問を変えましょう。どうやって私は、無我の境地で、射を待つことができるのでしょうか。そのとき「私」はすっかり消えているはずなのに」
「「それ」が力いっぱい引いたまま、待っているのじゃ」
「では、その「それ」は誰なのですか。それともなんなのですか」
「それがわかれば、わしなぞ不要じゃろう。あんたに自分で会得もさせずに、手がかりを教えてしまえば、最低の師匠ということになり、わしは破門じゃ。だからもう、その話はよそう。稽古あるのみ」
(中略)
ところが、ある日のこと、私の射のあと、先生が深々とお辞儀をした。そしてレッスンが打ち切られた。ぼうぜんとして先生を見つめていると、「いま「それ」が射たのだ」と大声で言われた。ようやく事情がわかった私は、こみあげてくる喜びを抑えることができなかった。
「わしは」と、たしなめられた。「ほめたのではない。確認したにすぎん。あんたには関係のないことじゃ。あんたにお辞儀をしたのでもない。射が成功したのは、 あんたのせいなんかではない。いまあんたは、力いっぱい引いたまま、完全に無我無心の境地にあった。だから射が、熟れた果実のように、離れたのじゃ。さあ、なにもなかったと思って、稽古を続けるんじゃ」

弓術における禅(ヘリゲル)

「もしもだよ、ぼくの望むようなマリオネットをつくってもらえるならさ、ぼくは、ぼく自身はもちろん、当代きってのほかのどのダンサーもできないような、そうさ、ピルエットの創始者ヴェストリでさえできないような踊りを、そのマリオネットでお目にかけることだってできるんだ。僭越な言い方かもしれないが」
(中略)
「では、それが生身のダンサーよりすぐれている点は?」
「すぐれている点? すばらしい質問だな。なによりもまず、それは否定的にしか言えないが、つまりさ、けっして自分を飾らない、ってことさ。(中略)これこそが、すばらしい特性なのさ。ぼくらたいていのダンサーには、逆立ちしてもできない芸当だ」
(中略)
「フェンシング世界チャンピオンみたいにクマは、ぼくの突きを残らず払った。それだけじゃない。フェイントには、まるで一度も乗ってこない(この点じゃ、世界中のだれもクマにかなわないね)。相手の魂を読み取れるかのように、じっと目をのぞきこんで立っているんだ。いつでも来い、というふうに前足をあげてさ。ぼくの突きが本気じゃないときは、まるで動かないんだよ。
信じられるかな、この話?」
(中略)
「だったら」と、私はちょっと、ぼうっとなったまま質問した。「無垢の状態に戻るには、もう一度、知恵の木の実を食べなきゃならないわけですね?」
「もちろんさ」と、彼は答えた。「それが、世界の歴史の最後の章なわけだが」

マリオネット芝居について(クライスト)

生きとし生けるものはすべて、苦しまねばならない。(中略)愛する者のために死ぬことは、かくも甘美な苦役ゆえ、言葉では言い表せないのだ。

苦しみ畑(ブリクセン)

「だが結局最後に連中は、わしらの足もとに自由を差し出して、こう言うだろう。『仕方ありません。どうぞ私たちを奴隷にしてください。そのかわりパンをください』。ようやく連中も自分で気がつくのじゃ。自由とパンが両立しないことにな。どんな場合でも人間は、パンをわかちあうことができないからだ。それだけではない。連中は納得するじゃろう。自由になるわけにいかないのは、人間というものが小心で、背徳で、取るに足らぬ暴徒だからでもあるとな」

大審問官(ドストエフスキー)

自由な精神の持ち主は、自分のインパルスにしたがって行動する。インパルスとは直感のことであり、それは、手持ちのアイデアのなかから、考えて選びだされる。(中略)手持ちのアイデアから具体的なイメージをつくりあげるのは、まず想像力によってである。自由な精神の持ち主が、自分のアイデアを現実のものにし、自分の意思を押し通すために必要とするのは、したがって道徳的想像力なのだ。それが、行動の源泉である。だから、道徳的想像力をもった人間だけが、そもそも倫理にかんして生産的なのである。倫理的な規則を具体的なイメージには凝縮できず、それを敷衍して述べるだけの無能な連中がいるが、そういう道徳の説経屋は、道徳にかんして非生産的なのである。連中は批評家に似ている。批評家もまた、芸術作品がどういうものであるべきか、わかりやすく説明することはできるのだが、自分ではなにひとつつくることができないからだ。
(中略)
規範の学としての倫理学など、ほかには存在しない。(中略)道徳の法は、まずわれわれが創造する。(中略)道徳の法は、個人にかかわるものであって、類のメンバーに当てはまる自然法則とは違うのだから。(中略)倫理的な存在としての私は、個人であり、私自身の法にしたがっているのである。

道徳的想像力(シュタイナー)

アインシュタイン・ロマン ~エンデの文明砂漠~ ミヒャエル・エンデと文明論

ドイツで実施された4千人の児童を対象としたアンケートを読んだことがあります。そこでの子供たちへの問いは、自分たちの未来をどのように想像するか、ということでした。子供たちの答えは、私を震撼させました。子供たちが自分たちを待ち受けている未来をなんとはっきり意識していることか! その未来像は、たとえば人々は地下室や地下鉄の構内でなければ生きることができず、太陽の下には出られない。それはオゾン層が破壊されているから、そして宇宙線が私たちや私たちの遺伝子を傷つけるからというものでした。

確かに、人々は進歩が継続し、ますます幸福になるという気持ちでいるようです。コマーシャルや現代文明のあらゆる手段によって、そのように言い聞かされてもいます。人々は、本当はますます貧しくなる一方であって、内なるものは空になり、最後には自分たちの内なる世界の荒廃(砂漠化)を進めていることにまるで気づいていません。

換言すれば、世界と人間の意識は同一なのです。そこには差異はありません。それを、客観的実在と人間の意識を区別し続けることは無意味です。互いに単独では存在し得ないものだからです。それは同じ一枚の硬貨の表と裏です。
(中略)
もし人間が正義を創造する努力を怠れば、正義は存在しません。人間が真実に向かって努力しなければ、真実への努力を知らなければ、真実は存在しないのです。
おわかりでしょうか。これはまさに私が精神的なものを語るとき、いつも言っていることと同じです。精神的なものはすべて人間がつくりださなければ、創造的につくりださなければ存在しません。ですが、存在するようになれば、それは実在するものとなるのです。
それは、生成する理念と言えましょう。真実もまた、生成する理念であり、「存在するもの」ではありません。
それは芸術と似ているんじゃないでしょうか!

アインシュタイン・ロマン ~エンデの文明砂漠~ ミヒャエル・エンデと文明論

2015年6月8日月曜日

Jesse Rya







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"The music" must be like this.
もし、本物の音楽なるものがあるとしたら、こういうのかもしれない。

Right now, right here, the sound goes away into the air and never be the same on a street.
「いま、ここで」ほんの一瞬の、消え去っていくもの。路上で。