ページ

2015年1月12日月曜日

現代の「生きづらい」のわけ

現代社会について。
こんな風にいうのは傲慢かもしれませんが、ぼくは人間の質が落ちているという気がしてなりません。
それは、唯物論と資本主義がもたらしたものです。
魂がないとすれば、愛や人間の尊厳はいったいどこから出てくるのか。
なんとなく生まれてなんとなく死んでいくタンパク質のかたまりには、そんなものはそもそも必要がない。
こんな世界観では無差別殺人事件が起こるのは当たり前です。
自分さえよければいい、日本人さえよければいい、人間さえよければいい、という世界共通のエゴは資本主義からのものだと思われます。
せめて自覚していればまだしもですが、現代人はその自覚すらないように思われる。

(メールより)

***

補足

言葉足らずかもしれない。
まず、宗教や信仰はここでは問題ではない。
「生きづらい」のは、経済や社会制度の問題以前に、現代の世界観が徹底的に貧しいから。
自分は特別なんかじゃない、自分は数字の1にすぎない、自分のかわりはいくらでもいる……
おかげで心が荒廃し、生きている意味がわからず、希望がない。
こんな世界観ではやりきれないということで、漫画、アニメ、ゲームなどありとあらゆるメディアでは奇跡や神秘が当たり前のようにあり、魂とか霊とかいったようなことも普通に扱われている。
つまり、人間は無意識的にこのような世界観を必要としている。
そのほうが圧倒的に豊かだからだ。
しかし、現代はその真逆である無味乾燥な世界観を押しつけてくる。

本当は違う。
世界中のすべての木は違う。すべての木にくっついているすべての葉は違う。
まったく同じ猫に会うことは二度とない。
まったく同じ意識も、まったく同じ認識もない。
固定されて動かない現実、客観的に厳然たる事実、などというものはない。
つまり、認識方法そのものが現代では間違ってしまっている。

ここを解決しないと、前には進まない。

覚書 文学とはなにか

文学ですが、難しい問いが出ました。
いったいなにをもって文学というのか。
メールをもらって以来ずっと考えていました。
ですが、おそらくこれは定義できないものではないか、そんな気がします。
定義できてしまうようなもの、分解し、細分化し、説明できてしまうようなものは、価値の低いものではないか、そんな考えが最近はあります。
ですがこれではまったく答えになっていないので、いい文学と悪い文学について少し考えてみます。

ひとつ思うのは、文学とは「問い」そのものではないか?
作家は答えを持っていない、持っている必要もない、ただ、彼が問い考えた過程そのものが作品であり、読者も同じ問いを考える。
ある種不可解な感じを残すもの、読者に思考を促すもの、これはいい文学かもしれません。
不可解というのは、認識の彼方にあるもの、知覚の彼方にあるもの、その残光が多少なりともとどめられていること。
その残光とは、別の言葉でいうなら、詩情、または美ということです。
悪い文学というのはいくらでもあるでしょうが、当然、それらが感じられないもの。また、現代では流行りですが娯楽性ばかりが問題にされているもの。あげればきりがありません。

ぼくは昔から、文学(芸術)とは精神性だと思っていました。
でも精神性とはなんなのか。これもまた定義できません。
それは上に書いたようなことなのかもしれません。

(メールより)

2015年1月11日日曜日

魔法の学校(エンデ)

たとえば、リンゴをボールに変えるのはまだ簡単です。どちらも形がまるいことが見ただけでもすぐわかるので、両方の似ているところがおのずから明らかだからです。けれど、フォークをリンゴに変えようとすると、大変です。この場合は、次のように考えるのです。形が大きくても小さくても、フォークはフォークです。形が大きいとすると、次にフォークが鉄でできていても木でできていても、やっぱりフォークにかわりはありません。さて、木のフォークは、大きくても小さくてもそれぞれ形は木の枝に似ています。だから、木とは、大きくて、先がたくさんわかれているフォークだということもできます。もちろん、リンゴの木も、そのなかにはいります。リンゴは、リンゴの木の一部分ですが、それぞれのリンゴの種には、リンゴの木全部が収まっています。ということは、リンゴはフォークである、ということができるのです。とすれば、反対のこともいえます。つまり、フォークはリンゴである、と。こうして、「魔法の橋」をかけることができれば、望む力を正しく使って、あるものを別のものに変えることもできるというわけです。

魔法の学校(エンデ)