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2015年12月29日火曜日

団地って、ヘン

 団地って、ヘン。

 野良猫がたくさんいる。でもペットは禁止。
 ニャー
 おいで、おいで。
 ニャー
 Fさんに買ってもらったトマトあげるからおいで。
 ニャー
 ちっ。こない。鳴くばかりでこないやつ。近づくと逃げるやつ。よくいるタイプそのいち。寂しいわりには人間不信の。誰かさんみたいな。
「あの、気分を害されたらごめんなさいね」
 知らないおばさん登場。あるある、よくある。団地では。
「猫、お好きなようだから」
 仲間かな。と思いきや。
「できたら、猫に優しくしないでくださいね。ほら、野良でしょ、不衛生で困っちゃうんですよ」
 なんの話かさっぱりわからないんですけど。猫が不衛生で困るのは猫だけでしょ。病気とかうつるから。
「わたしも見かけたら追っ払うようにしてて、でも猫だから、恨まれるかなってちょっとこわいんだけど」
 石を投げつけろと? しっしってやったくらいじゃ住みかを変えないと思うけど。
 嫌がらせで出て行く猫。しょんぼりとうなだれて、とぼとぼ団地を出て、道路の向こうに姿を消す。なんて繊細な。
 地域に迷惑かもしれないから、餌はあげてません。っていうか団地に野良猫が多いのって変じゃないですか?
「みんな飼ってるのよ。とんでもないですよ。管理の人たちは『ペット禁止』の看板を立てればそれでいいと思ってるんだから。ちっとも当てになりゃしない」
 まじですか。犬散歩してる人とか、外部の人が入り込んでるのかと思ってた。団地は緑が多いから。じゃあ昨日のおばさんも……?
「言っちゃ悪いけど、ここなんか人間の住むところじゃないですよ。お風呂に換気扇ついてないし」
 ええー、そんなことで? でも同じことを地元に対して思ってた。この地元嫌いときた日には。
「トイレにだってふたないでしょ。どうしてる?」
 別に気にしてませんけど。
「いいこと教えてあげる。布のトイレカバーだけ買ってきて、プラスチックかなんかの板をなかに入れて、便座の上に置けばいいのよ。最初から入ってる紙の板だと湿気てふにゃふにゃになっちゃうからね。見せてあげる」
 わざわざ持ってきてくれた。こりゃすごい。
「とにかく、話それちゃったけど、なるべく、猫に優しくしないでくださいね」
 わかりました、わかりました。そうでも言わないことにはどうしようもない。

 散歩に出て行って帰ってきたら、さっきのおばさんと偶然ばったり。同じ棟の同じ階段だけど。
「さっきはごめんなさいね。失礼しましたっていうお手紙入れておいたんだけど」
 それはわざわざご丁寧に、むしろありがとうございます。そういうのって嬉しいです。
 共同ポストのなかの手紙。なんだか変な字でほとんど読めなかった。

 団地って、ヘン。変な人がいて、変な会話があって。
 変なのは、おもしろくて、好きだから、まあいいや。

***

エッセイとして書いたもの。
横書きでよさそうな文体のため、このまま公開。
2014年。

2015年12月28日月曜日

人工楽園(ボードレール)

親愛なる女友に

普通に考えてみましても、この地上の物象の存在は、きわめて薄弱なものであり、真の現実は夢幻のなかにのみあるのです。自然の幸福を消化するためにも、人工の幸福を消化するためにも、まずそれを飲みくだす勇気を持たねばなりません。そして、おそらく、はかない人間どもが考えている福楽などが常に嘔吐剤としての働きしかあらわさぬような人々こそ、まさに幸福を受けるに値する人々であります。
(中略)
もとより、この献書の理由が理解されようとされまいと、少しもたいしたことではありませぬ。(中略)わたしは、生きている世界にはじつに興味がありませんから、感受性が鋭く所在ない女性たちがその打ち明け話を仮想の友達等に手紙で書き送るように、わたしもまた好んで死人だけを相手にして物を書きたいのであります。

人工楽園 献辞より(ボードレール)

2015年12月25日金曜日

沖の少女(シュペルヴィエル)


日が暮れるまで、牡牛とロバは草を食べにでかけていった。普段は理解するのに手間取る石たちなのに、野原ではすでに知っている石がたくさんあった。牡牛とロバが出会ったことのある石ころなどは、色と形を少し変えて、了解ずみであることを彼らに教えてさえいた。
また野の花のなかにも知っているものがあって、食べるのを遠慮しなければならなかった。冒涜の罪を犯さずに野原で草をはむのは、骨の折れる仕事だった。そして牡牛には、食べることが次第に無益なことに思われてきた。幸福感が、彼を満腹にしていた。
水を飲む前にも、こう考えた。「ところで、この水は知っているのだろうか」
疑わしいときには、飲むのをさしひかえ、少し遠くの、まだなにも知らないことがはっきりわかる泥水のほうへ行った。
それでも、ときには、水を飲みこむ瞬間にのどに感じる無限のやさしさによって、やっとその水が知っていることがわかった。
「しまった」と牡牛は思った。「飲んではいけなかったんだ」
呼吸するのさえひかえめにした。 空気がなにかしら神聖に思えて、なにもかも了解しているように思われた。天使を吸いこんでしまうおそれがあった。

牡牛の祈り
「イエスよ、あなたの光を少し、わたしのなかにあるこのすべての貧しさや混乱に注いでください。小さな手や足がとてもきれいに身体についているあなたの上品さを、少し授けてください」

まぶねの牡牛とロバ

2015年12月19日土曜日

ゆめみるめざめ

夢のなかで夢をみて、ユウはさまよい続ける。
夢から夢へ、めざめからめざめへ。

ガスマスクの転がる誰もいない部屋、道化と暴君、無限のらせん階段、砂漠の奴隷、お金でできた大都会、がらくたの海と海賊、不思議な神殿、みんなが眠っているまっ白い部屋……
シュールな幻想の数々。

真のめざめとは。
8つの物語からなる連作短編。大人の童話。

2015年11月6日金曜日

全アフォリズム集(ホッファー)

自然の非情さは、われわれを驚愕させる。自然が目的遂行の際に見せる巧妙さと精緻さを目の当たりにしたときは、なおさらである。たとえどれほど時間がかかろうとも、いかなる犠牲を払おうとも、偶然の力は最も明晰な精神のみがつくりうるものを完成させる。われわれにはその力は到底信じがたいものに思われる。まったくの偶然が目的を成し遂げるメカニズムを信じるよりも、神の存在を信じるほうが容易である。

教育の主要な役割は、学習意欲と学習能力を身につけさせることにある。学んだ人間ではなく、学び続ける人間を育てることにあるのだ。真に人間的な社会とは、学習する社会である。そこでは、祖父母も父母も、子供たちもみな学生である。
激烈な変化の時代において未来の後継者となりうるのは、学び続ける人間である。学ぶことをやめた人間には、過去の世界に生きる術しか残されていない。

言葉は、これまでいかなる悪魔の手先にもまして人間の魂を荒廃させてきた。人間の特異性の主要素である言葉が、非人間化の主要な道具でもあるというのは奇妙である。魔術の領域は不可視の領域であると同時に、言葉の世界でもあるのだ。

ビジネスにかかわるものはすべて腐敗するというのは、おそらく真理であろう。ビジネスは、政治もスポーツも文学も労働組合も腐敗させる。(後略)

からっぽの頭は、実際はからではない。ゴミでいっぱいになっているのだ。からっぽの頭になにかをつめこむのが難しいのは、このためである。

ものごとに精通すると、感性が衰え、活力が萎えるものである。それゆえ、芸術家も思索者も、ありふれたものの誕生と、知られているものの発見に没頭する。彼らはともに、ものごとの初期段階をもう一度とらえなおすことによって、生命を保持しているのである。


全アフォリズム集(ホッファー)

2015年10月29日木曜日

追い求める男(コルタサル)

「あの男をはじめ、カマリロにいた連中はどいつもこいつもなにかを信じきっていた。それがなんだかわからないが、とにかく連中はなにかを信じきっていた。自分がどんな人間で、どれほど価値があるかってことか、それとも卒業証書かな。いや、そうじゃない。なかには謙虚な人間もいて、そういう連中は自分が絶対に正しいとは思っていなかった。だが、どんなに謙虚な奴でも自信だけは持っていたな。それ、つまり自信を持っているってのが気にくわなかったんだよ。連中は、なにに自信が持てたんだろう? なんとか言えよ、ブルーノ。この皮膚のしたは、悪魔も顔負けするくらい腐りはてている。そんなおれにでも、ありとあらゆるものがジェリーと同じで、外側がぶよぶよしていて震えていることくらいはわかっている。少し考え、少し感じ、少し黙っていれば、あらゆるものに穴があいていることはわかるはずだ。ドアやベッドはもちろん、手や新聞、時間、空気、ありとあらゆるものが穴だらけなんだ。すべてがスポンジか、自分をろ過するろ過機みたいなものなんだ……だが、連中はアメリカの科学そのものだ。わかるだろう? その穴から連中を守っているのが、白衣なんだよ。自分の目でものを見ようとしないんだ、連中は。他の人間が見たものをそのまま受け売りしているだけだ。そのくせ、自分の目で見たと思いこんでいる。もちろん連中があの穴に気づいていないことは、言うまでもない。ただ、自信だけは持っているんだ・・・(後略)」

追い求める男(コルタサル)

2015年10月28日水曜日

生きるというリスク

××くんの言っていることは、まったくぼくも普段から思っていることです。
奴隷根性でもあり、怠惰でもあり、なんなんでしょうね、それでいて無駄にエゴが肥大化していて、おれ様と思っている。
人生や生きることというのはそもそもリスクで成り立っているというのに、それを極力ごまかして見えないようにしたがる。
自動車という人命リスクを保険でごまかし、賃貸経営というリスクを保証会社でごまかす、しかも入居者の金で。
楽をして安全に生きようというのが合言葉で、なにかを命がけでやるとか、自分の仕事に誇りを持つとか、そういう感覚がもはやない。
高潔さとか、よく生きるとか、そんななんの実益もないような観念はみんな死んでいて。
生きるというリスクをごまかしているので、老人はどっかにほうりこんでおけばそれでよく、死や自殺や安楽死などについて考えもしない。
​​たとえはきりがありません。
欺瞞と幻想のまっただなかに生きているのはまさに自分自身なのに、そういう連中に限って現実だリアリズムだと叫ぶ。
こういうことを常に見いだしていると、もう本当にうんざりしてきて、こんな世界からは早く死んで脱出したもの勝ちなんだろうなとすら思います。

(メールより)

***

思うに、人生(自己)という点を中心にして、そこから放射状に、すべての問題は混然一体とつながっている。
そのため、仕事、生活、社会、などの問題をみんなつながったものとしてとらえていて、個々に考えない。
現実のいろいろな側面を、分類して論理化したり一般化できると考えるのは間違っている。
死について。
生命倫理という言葉がある。死の倫理は?
介護、介護疲れ、高齢者施設、問題はたくさんある。
本人の意思とかかわりなく、心臓と脳が機能してさえいればそれでいい?
結局、この問いは「人間とはなにか」というところに戻ってくる。
現代の信仰によると、人間とは物体にすぎず、物体として動いてさえいればそれでいい、ということらしい。
だから精神性や知性がぼろぼろなのかもしれない。

2015年10月17日土曜日

パリの憂鬱(ボードレール)

「わたしの美しい犬、わたしのかわいい犬、わたしの大切な犬よ、こっちへおいで。街一番の香水店で買ってきた高級な香水をかいでごらん。」
すると犬はさかんに尻尾を振りながら、つまりそれがどうやら人間における笑いとか微笑に相当する犬類の挨拶らしいのだが、わたしのもとへやってきて、栓を開けた瓶のうえにその湿った鼻先を押し当てる。それから、ふいにおびえたように後ずさりすると、まるでとがめるようにわたしに向かって吠えかかる。
「ああ! 困った犬だ。排泄物の塊でもくれてやれば、おまえは夢中でかぎまわり、たぶん貪り喰ってしまっただろう。おまえというやつは、わが悲しい人生の不甲斐ない伴侶よ、そういうところが公衆にそっくりだ。公衆に上品な香水など与えても憤慨させるばかりだから、彼らには用心深く選んだ汚物をこそ与えなければならないのだ。」

犬と香水瓶

***

すべての人間に不満であり、わたし自身にも不満である。この夜の沈黙と孤独のなかで、わたしは多少なりともわが身をあがない、みずからの誇りを取り戻したいと思う。かつてわたしが愛した人々の魂よ、わたしがうたった人々の魂よ、どうかわたしを強くし、わたしを支え、世の虚偽と腐敗した瘴気をわたしから遠ざけてください。そして、あなた、わが神よ! わたしが人間のなかで最下等の者ではなく、またわたしが卑しむ人々よりもさらに劣った者でないことをみずからに証するために、せめて数行の美しい詩句を生み出せるようどうか恩寵をお授けください!

深夜一時に

***

邪悪であるということは決して許されることではないが、自己の邪悪さを意識している人間はまだしも多少の見所がある。もっとも救いがたい悪徳は、愚かさから悪をなすことである。

贋金

***

常に酔っていなければならない。すべてはそこにあり、それこそが唯一の問題だ。あなたの肩を圧し砕き、地面へ身をかしげさせる「時間」の恐るべき重荷を感じたくなければ、間断なく酔っていなければならない。
だが、なにによって酔うか。酒だろうと、詩だろうと、徳だろうと、それはなんだってよい。ただ酔っていなければならない。

酔うがよい

***

この人生は、病人のひとりひとりがベッドをかえたいという欲求にとりつかれている病院である。ある者はどうせ苦しむのならせめて暖炉の前で苦しみたいと思い、また、ある者は窓際へ移れば病気がよくなると信じている。
わたしの場合は、自分がいまいるこの場所以外のところへ行きさえすれば、かならずうまくいきそうな気がする。そこで、この引越しはわたしが絶えずわたしの魂と議論を交わしている問題のひとつである。
「言ってくれ、わたしの魂よ、冷えきった哀れな魂よ、リスボンに住むのをおまえはどう思うか。気候は暑いはずだし、あそこでならおまえもとかげのように元気を取り戻すだろう。あの都市は水のほとりにある。人の噂では、街は大理石でつくられていて、住民は植物を異常に嫌い、樹木のたぐいはすっかり引き抜いてしまうそうだ。おまえの趣味にぴったりの風景ではないか。光と、鉱物と、それらを映す液体でできた風景!」
わたしの魂は答えない。
「おまえは運動するものを眺めながら休息するのがあんなに好きなんだから、オランダへ、あの至福の土地へいって暮らしたいとは思わないか。美術館でよくおまえが絵を見て讃嘆したあの国でなら、たぶんおまえも気分を紛らすことができるだろう。ロッテルダムをどう思う? だっておまえは帆柱の森や家々のすぐ足もとのもやい船などがお気に入りではないか。」
わたしの魂は沈黙したままだ。
「バタヴィアのほうがもっとおまえには楽しいだろうか。あそこなら熱帯の美と結婚したヨーロッパの精神が見つかるだろう。」
一言も答えない。わたしの魂は死んでしまったのか。
「それじゃおまえは、病のなかでしか心が慰まないまでに麻痺してしまったのか。もしそうなら、「死」のアナロジーの国々へ遁走しよう。これで決まりだ、哀れな魂よ! トランクをまとめてトルネオへ旅立とう。さらに遠く、バルチックの海の最果てまでも行こう。もし可能なら、さらに人生から遠く離れて極北の地に住もう。そこでは太陽は斜めに地面をかすめるばかりで、昼と夜のゆるやかな交代は多様性を消し去り、虚無の半身の単調さを増大させる。そこでは我々は長い暗闇の沐浴にひたることができるだろうし、その間、我々の気晴らしのために、オーロラが「地獄」の花火の反映のようなその薔薇色の光の束を時折我々に投げかけてくれるだろう!」
ついにわたしの魂は爆発し、賢明にこう叫ぶ。「どこだってかまうものか! どこだってかまうものか! それがこの世の外でありさえすれば!」

ANY WHERE OUT OF THE WORLD

***

信仰告白。
ボードレールは美しすぎる。
少年のころから敬愛している。

2015年10月10日土曜日

人間とはなにか(ホッファー)

ある程度の自己否定は倫理的要因であると同時に創造的要因でもある(中略)豊かで自由な社会が秩序と安定を維持するには創造的社会とならねばならない(中略)創造的な人々は苦しみを信頼している。

人間とはなにか(ホッファー)

2015年10月6日火曜日

ゴーチエ幻想作品集

いかなる力もひとたび存在したものを滅ぼすことはできぬ。万物の遍在する大海に落ちたすべての行為、すべての言葉、すべての形、すべての思想が、そこに波紋をつくりだし、それは永遠のはてまで広がってゆく。

アッリア・マルケッラ

2015年9月12日土曜日

七人の使者(ブッツァーティ)

誰も竜の叫びに応えなかった、この世の中のなにひとつみじろぎを見せなかった。山々はじっと動かず、小さな土砂崩れさえおさまり、空は澄み、雲のかけらひとつなく、そして日は沈みつつあった。誰ひとり、獣も精霊も、この虐殺の復讐にはせつける者はなかった。この世界にからくも残存していたその異物を抹消したのは人間だった、いたるところに秩序維持のため賢明な法を打ち立てる利口で力の強い人間、進歩のために汗水たらす無欠の人間、山の奥深くにさえ絶対に竜が生き残ることなど認めることのできない人間なのだった。それを殺したのは人間であり、非難するのは間違いだろう。

竜退治

めいめいがおのれの山崩れを持っているのだ、ある者にとっては畑の上に土砂が崩れ落ちてきたり、ある者にとってはせっかくの堆肥土が流れてしまったり、またある者にとっては大昔の砂礫の雪崩だったりするのだ、めいめいがおのれの取るに足らない山崩れを持っている、だがそれは決してジョヴァンニにとって肝心なもの、彼に出世をもたらすような新聞記事を書きうるような大きな山崩れではないのだった。

山崩れ

「罪悪も、悔恨も、悲しみもない人生にいったいなんの意味があろう?」

円盤が舞い下りた

二人はなかに入り、薪を切って、火をつけた。薪はまだ湿っていたので、なかなか火がまわらなかった。だがふうふう吹いているうちに、やっとすてきな炎が燃え上がった。そこでガンチッロは火の上にスープのために水をいっぱい入れた鍋をかけ、それが沸き立つまで、二人は椅子に腰かけ、膝を火に温めながら、仲良くおしゃべりをした。煙突からは煙がひとすじ細く立ち昇りはじめた。そしてその煙もまた神だった。

聖者たち

2015年8月17日月曜日

片手いっぱいの星(シャミ)

ハビープさんが、十世紀にあった評議会制のカルマット共和国の話をしてくれた。この共和国には、スルタンも金持ちも貧乏人もいなかった。人々は、衣服と刀のみを所有し、女性にも発言権があり、自分のほうから夫を離婚することもできた。幼稚園もあった。重労働の粉ひきはそれまでもっぱら女性の仕事で、そのため女性はすっかりまいってしまっていたのだが、ここでは中央の製粉所で行われた。六人からなる評議会が共和国を指導し、評議員は国民の集会でいつでも解任できた。また、評議員は無報酬で、収入は他の方法で得なくてはならなかった。子供たちは、宗派間の争いも知らずに大きくなった。共和国は、人間はみな平等であることを宣言し、それまで神のおぼしめしとされていた奴隷制度を廃止した。そして全国民に平和を約束した。この共和国は百五十年続いた。領土はペルシャ湾岸地域からシリアまであったが、その後、宿敵の隣接する各国がそろってこの共和国に戦いを挑み、共和国は彼らに敗れた。敵国は、共和国の女、子供をひとり残らず処刑した。いつの時代にももっとも危険な病原菌、すなわち自由で汚染されていたからだ。

片手いっぱいの星(シャミ)

2015年7月23日木曜日

オールドパンク、哄笑する(ブコウスキー)

夕方近くになって、通りは車で混みはじめた。陽が次第に彼の背後に落ちていった。ハリーは車のドライバーたちにチラッと目をやった。幸せそうには見えなかった。世間は不幸だったのだ。みんな闇のなかにいた。みんな怖じ気づき、希望を失っていた。みんなが罠にはまっていた。保身に走り、頭がおかしくなっていた。人生を無駄にしているのではないかという思いにとらわれていた。だが、そのとおりだった。
ハリーはどんどん歩いていった。彼は信号で立ち止まった。するとその瞬間、まことに不思議な想いがわいてきた。この世界で生きているのは自分だけではないかという気がしてきたのである。

ぐうたら人生

民主主義とか機会均等にかんして、あれだけくだらないことをさんざん教えられてきたが、あれはただみんなに大邸宅に放火させないためだけだったのだ。確かに、ときには掃きだめのなかからはい出し成功したやつもいたが、そのひとりひとりに対して、ドヤ暮らしムショ暮らしに転落したり、精神病院にぶち込まれたり、自殺に追い込まれたり、ヤク中になったり酒びたりになったりした人間が五万といたのだ。それにもっともっと多くの人間が、みじめなまでの低賃金で働いており、最低限食っていくために何年も何年も人生を棒に振っていくのだ。
奴隷制なんてなくなってはいなかった。結局人口の九割を包み込むまでに拡大されただけだった。

思い切りが肝心

ものを書いていると人間は非現実的な空間に押し込められ、異様なはみ出し者になってしまう。ヘミングウェイがオレンジジュースを飲みながら頭を銃でふっとばしたのも不思議はない。ハート・クレインが船のスクリューに飛び込んだのも不思議はないし、チャタートンがネズミを殺す毒薬を飲んだのも不思議はない。唯一書き続けている連中はベストセラーを書いてる連中だったが、彼らは書いてるのではなかった。すでに死んでいた。

書けなくなって

2015年6月26日金曜日

M・エンデが読んだ本

そう言われて、ペリチョーレは、化粧品の瓶やポマードが置いてあるテーブルに突っ伏して、からだを痙攣させながら、激しく泣いた。完璧であることしか許されないのだ。ただ完璧であること。だがそれは無理な相談だった。
それからアンクル・ピオが、静かな声で、何時間もしゃべった。作品の解剖をし、声や振りやテンポについて細部にわたって説明した。(中略)
このふたりは、だれに気に入られようとしていたのか? リマの客ではなかった。彼らなら、とっくの昔に満足していた。われわれは、この地上に生まれるまえに、信じられないほど厳しい水準の完璧さを知っていたのだ。そして、もうけっして手にすることのかなわないその美を、おぼろげに想起してから、ふたたびあの世界へ戻っていくのだ。

サン・ルイス・レイ橋(ワイルダー)

そこである日のこと、先生にたずねた。「いったい、どうやって射は放たれるのでしょうか。「私」が放つのでなければ」
「「それ」が放つのじゃ」
「その答えは何度も聞きました。では、質問を変えましょう。どうやって私は、無我の境地で、射を待つことができるのでしょうか。そのとき「私」はすっかり消えているはずなのに」
「「それ」が力いっぱい引いたまま、待っているのじゃ」
「では、その「それ」は誰なのですか。それともなんなのですか」
「それがわかれば、わしなぞ不要じゃろう。あんたに自分で会得もさせずに、手がかりを教えてしまえば、最低の師匠ということになり、わしは破門じゃ。だからもう、その話はよそう。稽古あるのみ」
(中略)
ところが、ある日のこと、私の射のあと、先生が深々とお辞儀をした。そしてレッスンが打ち切られた。ぼうぜんとして先生を見つめていると、「いま「それ」が射たのだ」と大声で言われた。ようやく事情がわかった私は、こみあげてくる喜びを抑えることができなかった。
「わしは」と、たしなめられた。「ほめたのではない。確認したにすぎん。あんたには関係のないことじゃ。あんたにお辞儀をしたのでもない。射が成功したのは、 あんたのせいなんかではない。いまあんたは、力いっぱい引いたまま、完全に無我無心の境地にあった。だから射が、熟れた果実のように、離れたのじゃ。さあ、なにもなかったと思って、稽古を続けるんじゃ」

弓術における禅(ヘリゲル)

「もしもだよ、ぼくの望むようなマリオネットをつくってもらえるならさ、ぼくは、ぼく自身はもちろん、当代きってのほかのどのダンサーもできないような、そうさ、ピルエットの創始者ヴェストリでさえできないような踊りを、そのマリオネットでお目にかけることだってできるんだ。僭越な言い方かもしれないが」
(中略)
「では、それが生身のダンサーよりすぐれている点は?」
「すぐれている点? すばらしい質問だな。なによりもまず、それは否定的にしか言えないが、つまりさ、けっして自分を飾らない、ってことさ。(中略)これこそが、すばらしい特性なのさ。ぼくらたいていのダンサーには、逆立ちしてもできない芸当だ」
(中略)
「フェンシング世界チャンピオンみたいにクマは、ぼくの突きを残らず払った。それだけじゃない。フェイントには、まるで一度も乗ってこない(この点じゃ、世界中のだれもクマにかなわないね)。相手の魂を読み取れるかのように、じっと目をのぞきこんで立っているんだ。いつでも来い、というふうに前足をあげてさ。ぼくの突きが本気じゃないときは、まるで動かないんだよ。
信じられるかな、この話?」
(中略)
「だったら」と、私はちょっと、ぼうっとなったまま質問した。「無垢の状態に戻るには、もう一度、知恵の木の実を食べなきゃならないわけですね?」
「もちろんさ」と、彼は答えた。「それが、世界の歴史の最後の章なわけだが」

マリオネット芝居について(クライスト)

生きとし生けるものはすべて、苦しまねばならない。(中略)愛する者のために死ぬことは、かくも甘美な苦役ゆえ、言葉では言い表せないのだ。

苦しみ畑(ブリクセン)

「だが結局最後に連中は、わしらの足もとに自由を差し出して、こう言うだろう。『仕方ありません。どうぞ私たちを奴隷にしてください。そのかわりパンをください』。ようやく連中も自分で気がつくのじゃ。自由とパンが両立しないことにな。どんな場合でも人間は、パンをわかちあうことができないからだ。それだけではない。連中は納得するじゃろう。自由になるわけにいかないのは、人間というものが小心で、背徳で、取るに足らぬ暴徒だからでもあるとな」

大審問官(ドストエフスキー)

自由な精神の持ち主は、自分のインパルスにしたがって行動する。インパルスとは直感のことであり、それは、手持ちのアイデアのなかから、考えて選びだされる。(中略)手持ちのアイデアから具体的なイメージをつくりあげるのは、まず想像力によってである。自由な精神の持ち主が、自分のアイデアを現実のものにし、自分の意思を押し通すために必要とするのは、したがって道徳的想像力なのだ。それが、行動の源泉である。だから、道徳的想像力をもった人間だけが、そもそも倫理にかんして生産的なのである。倫理的な規則を具体的なイメージには凝縮できず、それを敷衍して述べるだけの無能な連中がいるが、そういう道徳の説経屋は、道徳にかんして非生産的なのである。連中は批評家に似ている。批評家もまた、芸術作品がどういうものであるべきか、わかりやすく説明することはできるのだが、自分ではなにひとつつくることができないからだ。
(中略)
規範の学としての倫理学など、ほかには存在しない。(中略)道徳の法は、まずわれわれが創造する。(中略)道徳の法は、個人にかかわるものであって、類のメンバーに当てはまる自然法則とは違うのだから。(中略)倫理的な存在としての私は、個人であり、私自身の法にしたがっているのである。

道徳的想像力(シュタイナー)

アインシュタイン・ロマン ~エンデの文明砂漠~ ミヒャエル・エンデと文明論

ドイツで実施された4千人の児童を対象としたアンケートを読んだことがあります。そこでの子供たちへの問いは、自分たちの未来をどのように想像するか、ということでした。子供たちの答えは、私を震撼させました。子供たちが自分たちを待ち受けている未来をなんとはっきり意識していることか! その未来像は、たとえば人々は地下室や地下鉄の構内でなければ生きることができず、太陽の下には出られない。それはオゾン層が破壊されているから、そして宇宙線が私たちや私たちの遺伝子を傷つけるからというものでした。

確かに、人々は進歩が継続し、ますます幸福になるという気持ちでいるようです。コマーシャルや現代文明のあらゆる手段によって、そのように言い聞かされてもいます。人々は、本当はますます貧しくなる一方であって、内なるものは空になり、最後には自分たちの内なる世界の荒廃(砂漠化)を進めていることにまるで気づいていません。

換言すれば、世界と人間の意識は同一なのです。そこには差異はありません。それを、客観的実在と人間の意識を区別し続けることは無意味です。互いに単独では存在し得ないものだからです。それは同じ一枚の硬貨の表と裏です。
(中略)
もし人間が正義を創造する努力を怠れば、正義は存在しません。人間が真実に向かって努力しなければ、真実への努力を知らなければ、真実は存在しないのです。
おわかりでしょうか。これはまさに私が精神的なものを語るとき、いつも言っていることと同じです。精神的なものはすべて人間がつくりださなければ、創造的につくりださなければ存在しません。ですが、存在するようになれば、それは実在するものとなるのです。
それは、生成する理念と言えましょう。真実もまた、生成する理念であり、「存在するもの」ではありません。
それは芸術と似ているんじゃないでしょうか!

アインシュタイン・ロマン ~エンデの文明砂漠~ ミヒャエル・エンデと文明論

2015年6月8日月曜日

Jesse Rya







***

"The music" must be like this.
もし、本物の音楽なるものがあるとしたら、こういうのかもしれない。

Right now, right here, the sound goes away into the air and never be the same on a street.
「いま、ここで」ほんの一瞬の、消え去っていくもの。路上で。

2015年2月24日火曜日

なぜ1日1冊本を読むのか(TED翻訳)

 
……誰もがいい人生を望んでいるけど、誰もがそのために必要な読書をするわけじゃない。
最初に紹介した、祖父に送られた11冊の本、そのなかのひとつにこう引用してあった。
「民族はストイックさのなかから生まれた。民族は贅沢さのなかで死ぬ」
ストイックな人たちはいま現在の楽しみを犠牲にする。後々のよりよいことのために。彼らは投資家ともいえるかもしれない。
享楽的な人たちはいまのために生きる。彼らは消費者だ。人生は一度きりなんだからと彼らは言う。こんな言い方がある。もしこのばか者が誰かわからないなら、きみこそばか者だ。誰だってばか者にはなりたくない。
メディアがなにをしたがっているか。ぼくは教えてあげられる、ハリウッドからきたんだから。彼らは爆撃しているんだ。ぼくらは1日に2000の広告を見る。 彼らはものを売りつけようとしている。贅沢品は高くつくんだ。きみの希望を、夢を、野心を殺してしまうくらい高くつくんだ。
だからもう少し意志を強く。ストイックに。

(講演の後半より)

2015年1月12日月曜日

現代の「生きづらい」のわけ

現代社会について。
こんな風にいうのは傲慢かもしれませんが、ぼくは人間の質が落ちているという気がしてなりません。
それは、唯物論と資本主義がもたらしたものです。
魂がないとすれば、愛や人間の尊厳はいったいどこから出てくるのか。
なんとなく生まれてなんとなく死んでいくタンパク質のかたまりには、そんなものはそもそも必要がない。
こんな世界観では無差別殺人事件が起こるのは当たり前です。
自分さえよければいい、日本人さえよければいい、人間さえよければいい、という世界共通のエゴは資本主義からのものだと思われます。
せめて自覚していればまだしもですが、現代人はその自覚すらないように思われる。

(メールより)

***

補足

言葉足らずかもしれない。
まず、宗教や信仰はここでは問題ではない。
「生きづらい」のは、経済や社会制度の問題以前に、現代の世界観が徹底的に貧しいから。
自分は特別なんかじゃない、自分は数字の1にすぎない、自分のかわりはいくらでもいる……
おかげで心が荒廃し、生きている意味がわからず、希望がない。
こんな世界観ではやりきれないということで、漫画、アニメ、ゲームなどありとあらゆるメディアでは奇跡や神秘が当たり前のようにあり、魂とか霊とかいったようなことも普通に扱われている。
つまり、人間は無意識的にこのような世界観を必要としている。
そのほうが圧倒的に豊かだからだ。
しかし、現代はその真逆である無味乾燥な世界観を押しつけてくる。

本当は違う。
世界中のすべての木は違う。すべての木にくっついているすべての葉は違う。
まったく同じ猫に会うことは二度とない。
まったく同じ意識も、まったく同じ認識もない。
固定されて動かない現実、客観的に厳然たる事実、などというものはない。
つまり、認識方法そのものが現代では間違ってしまっている。

ここを解決しないと、前には進まない。

覚書 文学とはなにか

文学ですが、難しい問いが出ました。
いったいなにをもって文学というのか。
メールをもらって以来ずっと考えていました。
ですが、おそらくこれは定義できないものではないか、そんな気がします。
定義できてしまうようなもの、分解し、細分化し、説明できてしまうようなものは、価値の低いものではないか、そんな考えが最近はあります。
ですがこれではまったく答えになっていないので、いい文学と悪い文学について少し考えてみます。

ひとつ思うのは、文学とは「問い」そのものではないか?
作家は答えを持っていない、持っている必要もない、ただ、彼が問い考えた過程そのものが作品であり、読者も同じ問いを考える。
ある種不可解な感じを残すもの、読者に思考を促すもの、これはいい文学かもしれません。
不可解というのは、認識の彼方にあるもの、知覚の彼方にあるもの、その残光が多少なりともとどめられていること。
その残光とは、別の言葉でいうなら、詩情、または美ということです。
悪い文学というのはいくらでもあるでしょうが、当然、それらが感じられないもの。また、現代では流行りですが娯楽性ばかりが問題にされているもの。あげればきりがありません。

ぼくは昔から、文学(芸術)とは精神性だと思っていました。
でも精神性とはなんなのか。これもまた定義できません。
それは上に書いたようなことなのかもしれません。

(メールより)

2015年1月11日日曜日

魔法の学校(エンデ)

たとえば、リンゴをボールに変えるのはまだ簡単です。どちらも形がまるいことが見ただけでもすぐわかるので、両方の似ているところがおのずから明らかだからです。けれど、フォークをリンゴに変えようとすると、大変です。この場合は、次のように考えるのです。形が大きくても小さくても、フォークはフォークです。形が大きいとすると、次にフォークが鉄でできていても木でできていても、やっぱりフォークにかわりはありません。さて、木のフォークは、大きくても小さくてもそれぞれ形は木の枝に似ています。だから、木とは、大きくて、先がたくさんわかれているフォークだということもできます。もちろん、リンゴの木も、そのなかにはいります。リンゴは、リンゴの木の一部分ですが、それぞれのリンゴの種には、リンゴの木全部が収まっています。ということは、リンゴはフォークである、ということができるのです。とすれば、反対のこともいえます。つまり、フォークはリンゴである、と。こうして、「魔法の橋」をかけることができれば、望む力を正しく使って、あるものを別のものに変えることもできるというわけです。

魔法の学校(エンデ)