ページ

2012年11月27日火曜日

さようならシュール

 曲がり角にきている。書き手としての曲がり角に。
 いままで書けていたものが書けなくなって、なにか、新しいことをはじめなくてはいけない。
 一時期はエッセイをよく書いていた。なにを書いてもエッセイにしかならなかった。あまり、うまくは書けないようだ。
 作品という意味では、ずっとシュールレアリスムの考え方を意識して書いていた。最初の頃はあまりよくわかっていなかったのだが。
 シュールというのはこうだ。まず、ぼんやりする。そうしてなにかイメージが浮かぶだろう。いまは夜だ。夜、と書く。またぼんやりする。ああお腹減ったなあと思う。夜、空腹の饗宴、となる。こんな具合で当てずっぽうな思いつきやイメージを次から次へと並べていく。夜、空腹の饗宴で出会った男女は、洗濯機の渦に投身自殺、云々。
 シュール初期の方法論はだいたいこんな具合だったはずだ。ずいぶんふざけて見えるかもしれない。ところが彼らは大まじめだった。シュールのそもそもの考え方は、当時確立された心理学にある。
 フロイトという偉い人がいた。彼は言った。人間には無意識の領域がある。夢はでたらめなものではない、ちゃんと現実に対応した意味があると。抑圧されたこと、記憶、自覚できないこと、ちょっとした感情の動き、ほんの一瞬のイメージ、それらはみな夢になって表れると。
 シュールレアリストたちはこの考え方を文学に応用した。(シュールは絵画の専売だと思われているかもしれないが、絵画が参入したのは後の話で、もともとは文学の、言語世界のものだったのだ)ある詩人などは夜扉に看板をぶら下げた。曰く、「詩人は仕事中」夢をみることが仕事だと。
 先に書いたシュールの実例は本当に初期のもので、方法論そのものはもっともっと先へ進めることができる。当時よくわからないまま考えていたのは、書くということは、なにかしら無意識のものが否応なしに表れるだろう。それを見る。自分を識るために書く。自己認識の一環だ、と。
 たとえば、昔から砂漠を扱うことが多かった。なぜか。個人差はあるだろうが、砂漠というのはなにか不毛なイメージだ。無機質な感じがする。水はなさそうだ。緑もなさそうだ。果てしがなさそうだ。陽は容赦ないようだ。希望はなさそうだ。死ぬかもしれない。
 たとえば、昔から独房を扱うことが多かった。なぜか。極大と極小の差はあれ、なにかこれも似ている。なぜか。
 あまり、自己認識の役には立たなかったようだ。作品としても精度を欠く。しかしこういったやり方は嫌いでない。
 作品を考えるとき、現実に即して考えるとすぐに行き詰まる。物語を考える能力がないのかもしれない。ああ、いっそ面倒だ、夢ということにしてしまえ、となると、いっぺんに楽になる。
 とりあえず書きはじめる。

 ひたすらにだだ白い場所を歩いていました。それは病院の床のようなのですが、わたしのなかでは雲の上を歩いているのだという確信があったのです。ずんずん歩いていくと、やがて、夜空に出ました。わたしは、夜空を見上げていたのか、見下ろしていたのか、とにかくそこには星座が並んでいるのでした。星座は、星と星の間に醜くぐにゃぐにゃと歪んだ白線が引かれ、もう本当に図解の星座のようになっていたのです。わたしはかに座を探しました。しかし正直なところ、わたしはかに座の形を知りません。わたしが唯一知っているのは、星座占いなどに出てくるあのマーク、シンボルというのか、数字の六と九を書いて横にし、それぞれ互いの頭と尻尾を追いかけているような形。なにか、自分の尾をくわえた蛇のような気がするのです。太極図にも似ている。わたしはこのマークが気に入っている方でした。それがそのまま、夜空に浮かんでいる。ああ、かに座。わたしはただそう思い、相変わらず、尾をくわえた蛇を連想したのです。やがて流れ星が落ちてきて、それはどちらかというと黒く硬い隕石の印象なのですが、わたしの足もとに穴をあけました。煙がただよう。視界が失われます。再びだだ白く。煙なのか雲なのかもうわからない。そのなかで、わたしは、残念で残念でならないのです。涙がこぼれるほどでした。ああ、なぜわたしの頭でなく、足もとなのでしょう。かすりもしなかった。それは大きな隕石なのです。角がとがって。当たるとしたら、きっとこめかみのあたりに違いないのです。まず最初こめかみに突き刺さって、その次に頭蓋を打ち砕く。ああ。そうして悲しい気持ちでいるうちに、ふいと目がさめました。

 構想もなにもあったものではない。一気呵成に書いて、筆を置く。そうして推敲すらろくにせず、あえて手を加えないという姿勢なら、本来のシュールに近い。推敲し、いらないところは削り、厚くできるところには肉をつけるとするなら、シュールを前進させた方法のひとつと言える。
 さて、できるのはこんなところなのだ。物語は、書けるだろうか。自分に課してみようか。上のは全然物語なんかじゃない。人物は描けるだろうか。自分に課してみようか。人物というのを一度も描いたことがない気がする。
 さようならシュール。そんなわけにいくだろうか。(そもそも、そんな必要はあるのか)なんにしろ、模索しなくてはならない。はじめなくてはならない。案外、こんな文章も新しい試みかもしれないのだから。

2012年10月28日日曜日

Dagger / Slowdive


世界は雑音だらけ
いつもそれを聞いてる

君がささやくのを聞いた気がする
いつもそう

ぼくは君の短刀
君の世界

2012年10月21日日曜日

活動報告

活動報告。


団地にある黒板で会議。


団地内広場にあるあずまやに設置。


こどもTAPPINO(タッピーノ)。


ルールと大人の方へ。


アートプロジェクト『とくいの銀行 ひきだそう会』に向けてちらしづくり。

***

「本業しないで遊んでるだけじゃないか」
そんな風に思いますか?
ところが、人生で大切なのは、土手でぼんやりしたり、子供と遊んだり、本や音楽に胸打ち震えたり、これすべて仕事です。
そういった諸々の経験が、感性を磨き、魂を成長させる。

この日よかったこと。
みんなの知らない一年生の子がきたので、「一緒に遊ばない?」と誘ったら、最初はなかなか四年生たちになじめなかったが、やがてみんなで元気に遊ぶように。
人と人とのつながり、こういったことは非常に重要だと常に考えています。
ぼく自身が孤立しがちなので。
最近は取材でコミュニティカフェに関わったり、人間関係の希薄さの問題によく触れていました。
ぼく自身のちょっとしたテーマでもあります。

2012年10月3日水曜日

神社 + 110円 - 猫 = 孤独


結局、ぼくなどというものは、いつもなにがしたいかわかっておらず、行き当たりばったり、街をぶらぶらしていたものが、神社なぞに落ち着いてしまい。


死にかけの猫と話す。
「大丈夫かい?」
「しっかりしろよ」
猫はよだれを垂らすばかり。
この猫はもうすぐ死ぬのだ。死病にかかっているのだ。


ベロが出しっ放しになってるよ。
でもぼくは全然気にしちゃいなかった、猫はいつか死ぬもんだ。
お互い孤独だ。だがこの瞬間に限っては孤独じゃない。そうだろう?
いっそ一緒に死んでやりたいくらいのものだった。
ぼくは全然構いはしない。


賽銭箱の下に小銭が・・・ だめだ、取れない。110円。

ぼくが猫の隣で、そうして賽銭箱のほとんど真ん前で、ぼんやりしている間、参拝者は二人あった。
ぼくは完全に邪魔だった。服装もいかれてた。アジアンだった。でも気にしなかった。
「ついでにこの猫のことも祈ってやってください」
むしろ心のなかでそうつぶやいていた。
遠くから、鳥居の外側から、ぼくに向かって頭を下げた人がいた。ぼくじゃなくて、神様にそうしていたには違いない。
ぼくは神を否定できない、むしろいてくれたらいいなあとすら思う、だが信じない。信じられないのだ。信じられたらどんなに素敵だろうといつも思う。

隣に猫がいるので落ち着いて、ノートなどを取り出し、少し考える。文章などを書いてみる。
少年時代のことを考えていたのだ。手首にひどく醜い傷のあるお婆さんのことを。
それは献血の帰りだった。

神主のごとき人が出てきて、「Tさんですか?」
「いいえ、違います」
訪ねてくる約束があるのに何時間も前からこんなところに座り込んでいるTさんというのはよほどの変わり者には違いない。

結局どのくらいいたろうか。
猫がのそりと起き上がり、離れていってしまったので、そこに居続ける気も失せた。
いま思えば、猫はただの老衰だったに違いない。老いぼれていたのだ。
首輪をしていて、神社の猫だった。母屋の方に餌皿があるのに気付いた。

そうしてぼくは帰った。
道ばたでずっと立ちすくんでから、そうして帰った。誰もいない家には帰りたくなかった。老いぼれ猫でもいいから一緒にいてほしかった。
ぼくは孤独だった。

2012年9月19日水曜日

Still Alive / Want You Gone / Portal


怒ってなんかないわ
とても正直な気持ち
あなたがわたしの心を打ち砕いたとしてもね
そうして殺したとしてもね


わたしのこと二度も殺そうとしたときのこと憶えてる?
ああ、なんて笑ったことかしら
わたしは笑ってなかったけど

2012年9月6日木曜日

白蛇(はくた)

K市のF弁天には白蛇がいるのだという。
他の取材をしていたときに聞いた話だ。
F弁天というのはいまはさほどのこともないが、一昔前は成田山よりも格が上で参拝者が絶えなかったのだそうだ。いつだったか一度だけ行ったことがあるが、蛇の影も形もなかったと記憶している。
その白蛇は年に一回かそこら一般に公開されるのだという。
「白蛇の像がまつってあるんですね」
以前小耳にはさんで知っていたわたしはそう言った。社のなかのご神体のようなものだと思ったのだ。
「生きているんですよ」
「えっ!」わたしは大声を出した。
人々は当たり前のように、それは大きいのだとか、青大将なのだとか言い合っている。瞳が赤いのだとも。
白蛇。わたしにとってそれは神話の存在だった。
どこで読んだのか、あるいは読み違えたのか、それの読みを「はくた」とおぼえていた。古い日本語だ。はくた、はくた。
突然変異とか、色素欠乏とか、言ってはつまらない。白蛇は八咫烏と同列だ。神の使いだ。赤い瞳。
願わくば、吉祥を授からなくては、我が身の呪いを払わなくては。
それだから、Sの字に見立てた白蛇を、名刺に刷った。瞳は赤く。

2012年9月4日火曜日

エッセイということ

3年ぶりくらいに自作(ただしエッセイ)を書いた。

手書きの草稿 → 大幅に推敲しつつ打ち込んだもの → 枚数の調整など大幅な推敲
と、何稿か段階を経ているが、9割方終わっている。
最後の最後、改行の位置、単語単位の彫琢などになってくると作業は気違いじみてくる。
それが嫌でいままではあまりこだわらなかった。
最近は少し意識が変わった。
構想に2~3ヶ月を要した。月を眺めたり風に吹かれたりしていた。
主題と構成を事前に意識して書いた。
エッセイである以上明確な意図と見せ方がほしく、ブレたりズレたりしたくなかった。

公開するかは未定。

***

ブログを書く意味を見失って久しい。
下書きをいくつも書いては没になっている。
今回は同業者のために書いた。
他の人はどういう風に書いているんだろう? というのは、昔は重要な疑問だった。
独自の方法論を確立すること。その一言に尽きる。
そのためには、色々試すこと。運動してから書く、手で書いてみる、など。
それから、沈思。花鳥風月を眺めること。
今作は水泳後の精神がすべてだった。

2012年8月6日月曜日

エッセイストらしく (追伸:たまに泣きます)

常にそうしているわけではないからあまり偉そうなことは言えないが、頭を使う作業をしている人は、作業前に2時間ほど運動ができるといいかもしれない。
散歩というか速歩をしているときは脳に血が行くのか、活性化していろいろな文章が頭に浮かぶ。(帰宅すると別にどうでもいいやという気にはなる)
水泳も同じ。ただしそれをしながら考えることはもちろんできない。
限界近くまでやるとアドレナリンが出る。
いままさにその状態でこれを書いている。(ただし自分自身の浮沈の激しい気質と間違いなく関係があるので、運動による効果はあまり当てにならない)

***

口語を減らしてみよう。
エッセイスト(ではないが)らしく書かなくてはとずっと思っていた。
ただ、現代的なエッセイというものがもしあるなら、むしろWEB的な口語なんだろうという気がする。
かたい文章は、読み慣れている人にはいいが、活字離れ世代にはどうだろうと思う。

***

たぶん自分はほとんど常に酸欠なんだろう。
呼吸に問題があるという気がする。姿勢とか骨格かもしれない。
脳に酸素が足りていない。
で、普段は33%くらいの稼働率で、ぼんやり省エネしている。よく言えばエコだ。
自分を知っている人は「あああいつぼんやりしてるな」とわかっているはず。
水泳なんかをやると、ものすごく吐いてものすごく吸う。
普段やらない呼吸法。
で、やっと脳の稼働率が66%くらいになる。(残りはなんだか知らないが)

***

まさにこういうときに作品を書くべきなんだろう。
ここ数年の問題点。
表現したいことがない。
なにかしら書きたいという気持ちが(いまのように)あればいいが、それもない。
いわゆるネタはずいぶんたくさんあるような気がする。
自主的にやりたいことがなくなったときに、他にあり得る動機としては、対象を絞る。
「この人のために書いてみようかな」というのはひとつの動機だ。
それで最も身近な弟に(ひっそり)取材に行ったわけだが、「暗い作品が好き」と言われたのではいままでやってきたことと変わらない。
そもそも、弟のように影のない人物は表現の対象にはほとんどなり得ない。
オフィーリアは、発狂して溺死したからあの絵になったのであって。

***

いいぞ・・・
普段ろくでもないことばかり書いているから、「あいつはばかだ」と思われているかもしれないが、こういう風に書くとまるでお利口さんのようじゃないか。
・・・こういう文脈の流れがすでにベケットのようで、結局、創作とエッセイ(日記)、虚構と現実の曖昧さのようなところが、相変わらず自分にとっては自然な表現に思える。
切れ切れに綴っていくところも。

***

ブログでなくてなにか短い作品でも考えるべきだった・・・
・・・かたい文章を好む人というのは、どのくらいいるものか。(逆に、あいつの口語は好きじゃないということはむしろあるかもしれないが)
「である」調でないだけこれでもまだやわらかい。
自分は「である」調は嫌いなので基本的に使わないが。

***

落ちないな。

「最近はずいぶんいろいろと努力している気がします。
頑張っている気がします。
ギターは弾いていません。弦が切れているので。
ちょうどぼくらの関係のように。
踊ることを覚えました。舞踊家になりたいというのが最近の夢です。
昔は海賊か殺し屋になりたかった。
ずいぶん大人になるまでそんな風に思っていたんです。
しかも本気で。
そちらは暑いと聞きます。ご自愛ください。
ぼくなら大丈夫。微妙に元気です。微妙に。
ちゃんと生きていますよ。きっとまた明日も生きているでしょう。もしかしたら来年も。
それでは、さようなら。

追伸
たまに泣きます」

2012年7月21日土曜日

くらい、くらい

去年の夏くらいにつくった曲。

・・・の歌詞。

***

寝転んでいると
息もつけないくらい
いろんなことを
思い出すよ

曲をつくった
フォークソングみたい
コード進行
歌にのせて

指がちぎれるくらい
ギターひいて
ここにいるんだ

涙こぼれるくらい
声あげて
生きているから

***

人様にあげたときに、あ、適当にやった割には結構よくない? と自分で思った。
ありのままのリアル。

ソフトで作曲できるようになりたいなぁ!

2012年7月16日月曜日

でもねこ

最近のいろいろ。記録用。


デモにきていたおじさん。というか猫。
この日は10万人くらい集まったらしい。
6月の最後。


猫地獄というか天国というか。
冷房と毛で鼻水地獄ではあった。
ボランティア。


すかいなんとか。


写真を撮るのは難しい。
上には登らず。

***

なにやってんだか。

2012年7月8日日曜日

The Elephant Man


去年くらいからずっと放置していてやっと観た。
リンチにしてはわかりやすく意味が通じる。
感受性がささくれ立っているせいか、すぐ泣く。(悲哀感が強いんだ)

"Never, never, nothing will die.
The stream flows, the wind blows,
the cloud fleets, the heart beats."

追記
『千と千尋の神隠し』もよかった。美しいと思った。
また泣いた。
猫バス乗りたいしいつだって幻想へ迷い込みたい。(現実が嫌いなんだ)

2012年6月1日金曜日

ゆめ

うちの犬がずっと瀕死で苦しみ続けている、と父が言う。
カニの肉をのどに詰まらせてもう何週間もたつと。
わたしは心配し、犬のところへ行くと、そののどに指を入れてなんとかしようとするが、成功しない。

***

問い:この夢の解は?
ヒント:自分は蟹座である

***

ちょっと考えてていろいろなことに気付いたけど、夢ってこわい。
象徴に次ぐ象徴。
父はただの脇役か? 現実には飼ってもいない犬はなんの象徴か?

夢って理不尽なんだけどね、のどに詰まらせた状態で何週間も生きてたり。
でも、そのなかでの感情はものすごく真に迫っていて、不安感であったりとか、生々と。
別にどうでもいいんだけど、夢は、ふと意味に気付くと、おもしろかったりする。
象徴的な夢ほどおもしろい。
気に入ってる昔の夢は、
「夜中に目覚めたわたしは、廊下に転がっている三匹の魚を避けて手洗いへ行く」
というの。
「その三匹の魚って家族じゃない?」と言われたときの「!」たるや。

珍しく象徴的な夢を見たので。

2012年4月20日金曜日

Landslide / Fleetwood Mac


山に登ってあたりを見渡してみる
わたし自身が雪の斜面に映って見えるわ
地崩れがわたしを飲み込んでしまうまで

ねえ、空にある鏡よ
愛ってなに?
わたしの心のなかの子供は成長できるの?
わたしは荒れ狂う海の波間を漕ぎ渡れるかしら?
わたしは人生の季節季節をしのげる?

地崩れがすべてを飲み込んでしまうまで

2012年4月12日木曜日

このめどき

木の芽時

風が強くふく頃、桜が咲く頃。
心身に不調をきたす人が多い時期のこと。

自分の場合

すさまじい寂しさ。
胸騒ぎ。胸がざわざわする感じ。
神経系統がうまく働かない。
などなど。

***

むかし

とってもとっても 大好きだった君が

あの津波で

もうどこにもいないなんて

もっかい 君の声 聞きたいよ

会えなくてもいいんだよ

ただ どっかの空のしたで笑っていてくれれば

君のいない世界なんて 考えられないよ

君がいなくなって

そうして

世界はまたつまらなくなった

***

流涕。
死んだ人のことを考えて、考えて、考え続けて、夢を見て、飛び起きる。
「お願いだからいかないで」と叫びながら。

さようなら・・・

2012年3月28日水曜日

流れていって埋もれていって消えて

自己補完に。

https://twitter.com/shingoadachi

Twitterの使い方がわからない。
こう・・・ 確かに自分は簡潔に表現できる(はず)なんだけど、自分のなかでは言語表現ってもっと重くて、流れていって埋もれていって消えてしまう感じが、なじめない。
一応、わざわざブログに書くほどのことじゃないな、という選別はしてるんだけど、(ブログの内容も大体ろくでもないが)、どうにもね。
その上、きっちり140文字詰め込む! みたいな気持ちになるし。
モバイル用アプリなんだろうね。

***

(資格ビジネス批判みたくなってしまったので前略)

・・・ここで言いたいのはそれらの是非でも批判でもなくて、「そんなのばかばかしいけど、仕方ない」って、割り切って生きていく人と、「ばかばかしい、嫌なものは嫌だ」って片意地張って生きていく人と、いるだろう。
これは要するに、世界に自分を合わせて生きるか、世界を自分に合わせようとして足掻くか、という問題と根を同じくしてるかもしれない。
どちらがいいという問題でもなく、どちらが正しいという問題でもない。
ただ、生きていきやすいか、生きていきにくいか、ではあるかも・・・
"I can't fit the world!"(「おれは世界に合わないよ!」)って言ったりしてね、そんなことを、まぁ、よく考える。
その英語表現そのものはどっかからぱくってきたもので、そういう、あ、この言い回し素敵、みたいなのをよく流用してる。"This sh*t sh*t world"とか。もともとは映画だったり、Youtubeのコメントだったり、する。あとは歌詞だったりか。
最近は知らない音楽をたくさんたくさん聴いていたので、いろんな表現が入ってきた。そして出ていった。

論理の展開がぐだぐだだけど、わざとそうしてるから大丈夫なんです。
文章の一部気に入ってるから消すに消せず。
結局、Twitterの投稿とどっちがよりゴミかって比較されると痛いね。

追記

眠れない。
日々の睡眠時間が3時間だと、こんな文章しか書けないよ。直しても直しても直らない。
眠いのに眠れない。

2012年3月5日月曜日

さいきんおぼえたことば

さいきんおぼえたことば。

不全感

基底欠損

うん。

***


この一文に惹かれて再読。

***

新書(主に心理)、童話、そのあたりを読んでいた。

心理とか、不幸な人間の書いたものを読むと、癒されるよね。

***

ありえないくらい映画ばかり観てた。

黒髪白人男性がセクシーでいい。"Scent Of Woman"のアル・パチーノ。

黒髪じゃないけどマルコヴィッチ。目がキレてる。おっさんが好きなんだ。

***

「自分が自分である絶望ってこと? それなら、わかるよ」

それから、自分自身であろうとする絶望ね。

***

友達と電話をしていて、ばか笑いしてたけど、泣きそうだった。

素直に泣きゃよかった。

***

読み返し。

「わたしはただ愛されたかっただけだ」「愛とはなんのことだ」わたしには答えられない。わたしは愛を知らないので。

しかし、ほとんどのつまらない男に、ほとんどのつまらない女がくっついていて、それが家庭をなして、つまらない子供を豚のように産むのだ。彼女はそう思った。

わたしの想像する神経は、枝分かれした導火線のようなもので、それに火をつけて全部燃やしてしまったら、さぞかし爽快だろうと思う。

『蛇尾』より抜粋

序盤くだくだしい、瞬間瞬間には書けている。

***

陰ながら応援してた在野作家のサイトが消えちゃってた。

勘弁してくれよ・・・

***

まともに文章書けなくなっちゃった。

ちょっと、疲れちゃった、かな。

酔って数時間かけて書いた。

2012年1月22日日曜日

モノ


がしゃんこがしゃんこやってつくったモノ(缶バッジ)。

Occupyの旗と、$の手錠。

ブランド名が入っているものが好きでないので、バッグのブランド名を隠した。

もっといろいろあります。反原発のとかも。

ほしい人は・・・ デモかなんかにくると、自分が売り歩いてるかもしれない。

自分自身でつくったレアもんだかんね、ちょっとだけ自慢。

2012年1月8日日曜日

Blank / SP



からっぽだったらな、って思うんだ
からっぽだったらな、って

もしも
しっかりしてたら
違ったことを言ってたら
なんにも言わなかったら、って

からっぽだったらな