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2009年6月28日日曜日

自己管理とむら

数日前から文章を書いている。

進捗は遅く、昔は一日何枚とかいう具合で自分自身に課すものがあったのだけれど、いまは、質と、継続に重きを置いている。

理想は、毎日欠かさず定期的に書ければいいのだけれど、どうにも集中できないことが多く、難しい。

なにか、最近はなにごとにつけ非常に集中力を欠く。

自己管理がもっとも難しいと、昔から痛感していたが、一日のうちで、もっとも集中力が充実していて、精神が研ぎ澄まされている、そんな瞬間を持つこと、その瞬間を活かすこと、これは本当に難しい。

「むら」というのが本当に嫌いなのだが、ある別の日に書いた文章と、他の日に書いた文章と、あとから読み直したときに、書いた当時の集中力のせいで、文章の質にむらを発見するのは、本当に不愉快なことだ。

それなので、書けないときには無理に書かないし、なにかおかしく感じたらすぐに筆を置く。

昔からそうしている。

それでもむらは出る。

いま書いているのは、まだ短いが、長期的に書く予定で、短いものにするつもりはない。

前々からやろうと思っていたことをやる予定でいる。

少し、書き手である自意識が変わったので、少し、書く意識が変わった。

完成したら、公開できる質のものだといいのだけれど。

2009年6月14日日曜日

シュルレアリスム論

友人の詩に関する論文(の追記)をやっと完読した。

ぼくには難しかったものの、シュルレアリスムに関する項は大変面白く、また、共感できた。

ロートレアモンが小説という形態を否定する意味が完全にはわからなかったものの、ぼく自身の特性としても、長文形式は非常に苦手で、短文、あるいは、短文を適当に繋げたものしか書けないというのは、あるいは理にかなったことなのかもしれない。

要するに、長文には無駄な表現が多すぎる。

肉も脂肪も削ぎ落として、骨だけの簡素な文章にしたいという願望はずっと昔からあった。

『すべてが美しくなくてはならない』

特に根拠のない感想だけれども、シュルレアリスム運動以降、特に文学が前進したとはほとんど感じていない。

戦後の実存主義文学流行のようなものがあったようだけれど、それはどちらかというと思想的な意味合いが強く、文学表現の本質にはほとんど変わりがないという感想。

ぼくがシュルレアリスムを知るずっとずっと前から考えていたのは、全体性の表現。

それは実は表現ですらなく、「はい、これ」と提示して、それそのものがひとつの宇宙であり混沌であるといったような。

そこには主題もなく、目的もなく、物語もなく、主人公もなく、なんの意味すらなく……

解釈は勝手放題、ちょうどこの世界に、あらゆる宗教・思想・価値観が散乱しているように。

実のところ、それを、『蛇』でやった。

その点に関しては、いい試みだと、いまは思う。

ただし、技術面で失敗が多いので、封印してしまった。

(ごく一部の人は褒めてくれた。ありがとうございます)

優れた文学に関するものに触れると、多少、触発される。