ページ

2009年7月31日金曜日

シュルレアリスム以降

文学の話をしたのだけれども。

シュルレアリスム以降の、「小説」のあり方、そして、ぼく自身の方向性、というものをうまく説明している文章を見付けた。

以下、日本語版Wikipedia、ヌーヴォー・ロマンの項より抜粋。

***

ヌーヴォー・ロマン(Nouveau roman、「新しい小説」の意)は、第二次大戦後のフランスで発表された前衛的な小説作品群を形容した呼称で、アンチ・ロマン(Anti Roman、「反小説」の意)と呼ばれることもある。

作者の世界観を読者に「押しつける」伝統的小説ではなく、プロットの一貫性や心理描写が抜け落ちた、ある種の実験的な小説で、言語の冒険とよんでいい。その技法は「意識の流れの叙述」(ナタリー・サロート)や「二人称小説」(ミシェル・ビュトール)、「客観的な事物描写の徹底」(ロブ=グリエ)など様々だが、読者は、与えられた「テクスト」を自分で組み合わせて、推理しながら物語や主題を構築していかざるを得ない。

結果として商業主義とは完全に相反するものとなりながらも、このうえなく深い、小説的な言語によってしか到達し得ない思想的な領域を開拓していくこととなったのである。

***

彼らの作品は多少読んだし、影響も受けているけれども、本質的には、シュルレアリスムの延長線上でしかないという印象。

なので、ぼくがなにかを語るときは、シュルレアリスムという言い方をする。

上の抜粋文は、的を射ている。

ものを読む場合、それは、鏡のようなものだと思っている。

カフカの『城』を、「神の恩寵」と言おうが、「社会」と言おうが、それは自由で、読んだその人の目にはそう映った、ただそれだけのことで、絶対的な答えは必要ない。

それは、幾多もある価値観・思想・宗教などと同じことなので。

世界に答えはないし、答えを押し付けることのできる人間もいないので。

そういった、曖昧模糊とした世界「そのもの」を書いている種類の文学の場合は。

答え(主題)の用意されている種類の(古典的な)文学については割愛。

抜粋文のなかで鍵となる言葉は、

1. プロットの一貫性や心理描写が抜け落ちた、ある種の実験的な小説で、言語の冒険

2. 読者は、与えられた「テクスト」を自分で組み合わせて、推理しながら物語や主題を構築

3. 商業主義とは完全に相反する

以上。

こういった作品を理解する必要はないけれども、理解できない頭脳(感性)は、2.の能力が欠けているのだと言わざるを得ない。

そういった作品が非常に退屈だということは認める。

ところで、そういった作風に、「小説」という悪印象の言葉は好もしくない。

なにか新しい言葉を定義する必要がある。

2009年7月18日土曜日

日本言語

推敲が終わった。

たいしたことはしていない。

ただ、日本語には本当にうんざりさせられる。

「食う」「喰う」「生まれる」「産まれる」、漢字表記の統一。

「だ」「である」、語尾。

言語的優劣は別として、編集という観点からは、最悪だと思う。

個人的には、昔からだが、単純な記号のような、欧米言語の方が好ましい。

書いたものを、公開しようと思う。

2009年7月13日月曜日

80枚と少し

とりあえずのところ書き終わった。

80枚と少し。

再読はまだ、全体的な推敲もまだ。

常に集中できず、頭にもやがかかったような状態になるので、嫌な思いをした。

脳がおかしいのだろうか。

再読と推敲が終わったら「ここに」公開したいと思う。

HTMLをいじるのはめんどうなので。

推敲は、ほとんどしないと思う。

推敲すると、『自動筆記』『自由連想』的な方法が壊れてしまうので。

日本語特有の煩わしい語尾、あとは漢字・ひらがなの統一とか、その程度。

予定もなにもなかったのだけれど、限界が来たので終わらせざるを得なかったような感じ。

長いものを書く能力はない。

常に行き当たりばったり。

再読して幻滅しないことを願いつつ。

追記 (7/14)

軽く再読、軽く推敲をした。

いいのか悪いのか、よくわからない。

中途半端だという気はする。

書き残したことも多い。

しかし、自然な流れで、終局へ向かってしまったので、それは仕方がない。

もともとはもっと延々と書くつもりだったのだけれど……

書き終えて、わかったことがひとつ。

ぼくは、なにをしても、満たされるということがない。

なにをしても虚しい。

完成度にかかわらず、書いた、という自己満足もない。

どんな努力をしても、自己満足はどこにもない。

だから、虚しく、早く逃げ出したいのだ、と気付いた。

2009年6月28日日曜日

自己管理とむら

数日前から文章を書いている。

進捗は遅く、昔は一日何枚とかいう具合で自分自身に課すものがあったのだけれど、いまは、質と、継続に重きを置いている。

理想は、毎日欠かさず定期的に書ければいいのだけれど、どうにも集中できないことが多く、難しい。

なにか、最近はなにごとにつけ非常に集中力を欠く。

自己管理がもっとも難しいと、昔から痛感していたが、一日のうちで、もっとも集中力が充実していて、精神が研ぎ澄まされている、そんな瞬間を持つこと、その瞬間を活かすこと、これは本当に難しい。

「むら」というのが本当に嫌いなのだが、ある別の日に書いた文章と、他の日に書いた文章と、あとから読み直したときに、書いた当時の集中力のせいで、文章の質にむらを発見するのは、本当に不愉快なことだ。

それなので、書けないときには無理に書かないし、なにかおかしく感じたらすぐに筆を置く。

昔からそうしている。

それでもむらは出る。

いま書いているのは、まだ短いが、長期的に書く予定で、短いものにするつもりはない。

前々からやろうと思っていたことをやる予定でいる。

少し、書き手である自意識が変わったので、少し、書く意識が変わった。

完成したら、公開できる質のものだといいのだけれど。

2009年6月14日日曜日

シュルレアリスム論

友人の詩に関する論文(の追記)をやっと完読した。

ぼくには難しかったものの、シュルレアリスムに関する項は大変面白く、また、共感できた。

ロートレアモンが小説という形態を否定する意味が完全にはわからなかったものの、ぼく自身の特性としても、長文形式は非常に苦手で、短文、あるいは、短文を適当に繋げたものしか書けないというのは、あるいは理にかなったことなのかもしれない。

要するに、長文には無駄な表現が多すぎる。

肉も脂肪も削ぎ落として、骨だけの簡素な文章にしたいという願望はずっと昔からあった。

『すべてが美しくなくてはならない』

特に根拠のない感想だけれども、シュルレアリスム運動以降、特に文学が前進したとはほとんど感じていない。

戦後の実存主義文学流行のようなものがあったようだけれど、それはどちらかというと思想的な意味合いが強く、文学表現の本質にはほとんど変わりがないという感想。

ぼくがシュルレアリスムを知るずっとずっと前から考えていたのは、全体性の表現。

それは実は表現ですらなく、「はい、これ」と提示して、それそのものがひとつの宇宙であり混沌であるといったような。

そこには主題もなく、目的もなく、物語もなく、主人公もなく、なんの意味すらなく……

解釈は勝手放題、ちょうどこの世界に、あらゆる宗教・思想・価値観が散乱しているように。

実のところ、それを、『蛇』でやった。

その点に関しては、いい試みだと、いまは思う。

ただし、技術面で失敗が多いので、封印してしまった。

(ごく一部の人は褒めてくれた。ありがとうございます)

優れた文学に関するものに触れると、多少、触発される。

2009年2月24日火曜日

猫が死んだ

猫が死んだ。

シナモン(♂) 享年六歳


死が、我々にとって安らぎの解放であるように。

ごめんね。

さようなら。